編集部注(著作権について): 「狂気の山脈にて」の初出誌『Astounding Stories』1936年2〜4月号は米国で著作権が更新されており(登録番号R309944)、米国では2032年まで著作権が継続している。本記事ではこの作品の原文から引用を行わない。ポー『アーサー・ゴードン・ピムの物語』(1838)とヴェルヌ『氷のスフィンクス』(1897)はパブリックドメインだが、当サイトではスペイン語訳の原文にも独自には当たっておらず、いずれの作品も本記事では直接引用しない。本文中でValdemar公式ページの紹介文をごく短く訳出している箇所があるが、これは同社が自社の刊行物を語るために公開している販促文からの引用である。

新潮文庫『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選』(南條竹則編訳)。本書が3作目に収める「狂気の山脈にて」を日本語で読める(新潮社公式の目次で確認)。
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概要
スペインのEditorial Valdemarは、『Trilogía de la Antártida(南極三部作)』と題する一冊を公式商品ページで案内している。当サイトが2026年9月14日に同ページへ直接アクセスして確認した内容は次の通り[1]。
- ISBN: 9788477029816
- ページ数: 704ページ
- 価格: 36,50ユーロ
- 叢書: Gótica(ゴティカ)、整理番号GOT-136
- 刊行年: 2026年
- 翻訳: Francisco Torres Oliver、Malvido
- 収録作(公式ページの表記): 「El relato de Arthur Gordon Pym(アーサー・ゴードン・ピムの物語)」「La esfinge de los hielos(氷のスフィンクス)」「En las montañas de la locura(狂気の山脈にて)」
- 著者表記: Edgar Allan Poe、Jules Verne、Howard Phillips Lovecraft
どの訳者がどの作品を担当したかは、公式ページの記載だけでは判別できない。1冊の中に3人の訳者名ではなく2人しか挙がっていないため、どちらかが2作を訳しているとみられるが、内訳は確認できていない。
どんな本か
これは書き下ろしの新訳選集ではない。Valdemarはすでにポー、ヴェルヌ、ラヴクラフトそれぞれの単著を自社の別叢書で刊行しており、今回の一冊はその3作を「南極」という舞台の一点だけを軸に束ね直した編集版だ。公式ページの紹介文は、ポーが1838年に発表した唯一の長編小説『アーサー・ゴードン・ピムの物語』から説き起こす[1]。
紹介文の要旨は次の通りである。ポーの小説は、当時流行していた海洋冒険物語として始まり、南極に近づいたところで「失われた世界」もののような様相へ転じ、結末を開いたまま終わる。それから60年後、ポーの敬愛者だったヴェルヌが、その続編かつオマージュとして『氷のスフィンクス』を発表する。主人公は地質学者ジョーリング、舞台はピムの失踪から11年後で、彼はピムの消息をめぐる手がかりを追って南極へ向かう。そして1936年、ポーの崇拝者だったラヴクラフトが「狂気の山脈にて」を連載する。ミスカトニック大学探検隊の一員が、ピムの運命と関わりがあるかもしれない発見を語る——今後の探検隊がこの山脈へ無謀な計画を持ち込まないよう思いとどまらせるために、という体裁で。なお、この筋立ての説明はValdemarのスペイン語の紹介文を読んで要約したものであって、ラヴクラフトの英語原文を訳したものではない[1]。
Valdemar自身がこの一冊を評して、「1世紀にわたってポー・ヴェルヌ・ラヴクラフトという3人の巨匠が積み重ねた、文学史上でも類を見ない事例」と位置づけている[1]。
分析1: この三部作は「神話の三層」に収まらない
当サイトはクトゥルフ神話を、原典(1917-1937年のラヴクラフト自身の作品)・ダーレス以降の拡張(1939年以降)・TRPGによる拡張(1981年以降)という三層で読み解いている(原典/ダーレス系拡張/TRPGで読み解くクトゥルフ神話)。
この枠組みに『南極三部作』を当てはめようとすると、うまくはまらない。収録3作のうち「狂気の山脈にて」だけは間違いなく第1層(原典)に属する。だが残る2作、ポーの『ピム』(1838)とヴェルヌの『氷のスフィンクス』(1897)は、そもそもクトゥルフ神話という枠組みが生まれる前に書かれた作品であり、神格も魔導書も登場しない。三層のどこにも位置づけようがない、というよりも三層という区分自体の適用対象外にある。
つまりこの一冊が示しているのは、クトゥルフ神話の内部を拡張する系譜ではなく、クトゥルフ神話が生まれる土壌になった、もっと広い「南極恐怖小説」という文学的系譜だ。当サイトの三層モデルは神話そのものの変質を追う道具であって、神話が芽吹く前の文学的地層までは掘り下げない。Valdemarのこの編集版は、その掘り下げられていない地層を、南極という一点だけで串刺しにして見せている。
分析2: ラヴクラフト自身が『ピム』をどう読んでいたか
「狂気の山脈にて」がポーへの目配せを含む作品であることは、小説の本文からも確認できる。当サイトのエドガー・アラン・ポー記事で確認した通り、作中にはポーへの言及が4回、怪鳥の叫び「テケリ・リ」が12回登場し、語り手はピムの南極行を思い出す場面を持つ[2]。
この関係を裏付けるラヴクラフト自身の言葉は、彼が1927年に発表した評論「文学における超自然の恐怖(Supernatural Horror in Literature)」に残っている。当サイトでは今回、この評論の公式アーカイブに改めて直接アクセスし、該当箇所を確認した[3]。ポーを扱う第7章の終盤、催眠術で死後も肉体を保たれる「ヴァルドマー氏の症例の真相」に触れたすぐ後で、ラヴクラフトは『ピム』についてこう書いている。
“In the Narrative of A. Gordon Pym the voyagers reach first a strange south polar land of murderous savages where nothing is white and where vast rocky ravines have the form of titanic Egyptian letters spelling terrible primal arcana of earth; and thereafter a still more mysterious realm where everything is white, and where shrouded giants and snowy-plumed birds guard a cryptic cataract of mist which empties from immeasurable celestial heights into a torrid milky sea.”
(訳: 『アーサー・ゴードン・ピムの物語』において、航海者たちはまず、白いものが何ひとつ存在しない、殺意に満ちた原住民の住む奇妙な南極の土地に着く。そこでは巨大な岩の峡谷が、地球の恐るべき原初の秘義を綴る、巨大なエジプト文字の形をしている。その先には、さらに謎めいた領域が広がる。今度はすべてが白い世界で、覆いをかけられた巨人たちと雪のような羽の鳥たちが、測りしれない天の高みから流れ落ちて灼熱の乳白色の海へ注ぐ、霧の滝を守っている。)[3]
この一節の詳しい読み解きと、「狂気の山脈にて」の本文がどう『ピム』の骨格を受け継いでいるかは、既存記事エドガー・アラン・ポーにまとめてある。ここで確認しておきたいのは、ポーの南極が「白いものが何ひとつない土地」と「すべてが白い世界」という二段構えで書かれていた、という点だ。ラヴクラフトはこの構造を要約できるほど精読していた。
分析3: ヴェルヌを「続編」と呼んでいるのはValdemarの紹介文である
『氷のスフィンクス』を『ピム』の続編と位置づける見方は広く流通しているが、当サイトのルール上、出典に個人ブログやファンサイトは使えない。今回確認できた根拠は、Valdemar公式ページの紹介文そのものである。同ページは「ヴェルヌが自らの小説『氷のスフィンクス』を、『アーサー・ゴードン・ピム』への続編(secuela)かつオマージュ(homenaje)として発表することを決めた」と明記している[1]。
この記述が示しているのは、あくまで「Valdemarという一つの出版社が、自社の刊行物をこう位置づけている」という事実であって、ヴェルヌ本人が公言した執筆意図そのものではない。当サイトでは今回、ヴェルヌ自身の序文や書簡といった一次資料までは確認できておらず、この「続編」という位置づけをValdemarの紹介文を離れて独立に裏付ける材料は持っていない。したがって本記事では、この関係を「Valdemarの紹介文がそう位置づけている」という留保付きの書き方にとどめる。
それでも、公式ページが記す設定――ピムの失踪から11年後、地質学者ジョーリングがその消息を追って南極へ向かうという筋立て――は、それ自体『ピム』の開かれた結末を意識的に引き継ぐ作りになっている。ラヴクラフトが「狂気の山脈にて」で行ったのと同じ手つき、すなわち先行作品の未解決の謎を、自分の物語の出発点に据えるという構造を、ヴェルヌはラヴクラフトより40年近く先に試みていたことになる。100年の系譜は、ポーからラヴクラフトへ一直線に伸びているのではなく、ヴェルヌという中継点を経て、同じ手つきが二度使われている。
関連して読むなら
- 狂気の山脈にて — この三部作の最後を飾る、ラヴクラフト自身の原典
- エドガー・アラン・ポー — ラヴクラフトがポーから何を受け取ったと自分で書いていたかを、評論の引用とともに掘り下げた記事
- コズミックホラーはラヴクラフトの発明か — 同じ評論「文学における超自然の恐怖」を手がかりに、ラヴクラフトが体系化したものは何かを検証した記事
- 原典/ダーレス系拡張/TRPGで読み解くクトゥルフ神話 — 本記事で「収まらない」と述べた三層モデルそのものの解説
- 狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選(新潮文庫) — 日本語で「狂気の山脈にて」を読む場合の邦訳版
- 狂気の山脈にて(田辺剛 ラヴクラフト傑作集) — 同作のコミカライズ版
出典
- [1] Editorial Valdemar 公式商品ページ「Trilogía de la Antártida」(2026年9月14日確認)。ISBN 9788477029816、704ページ、36,50ユーロ、叢書Gótica/GOT-136、刊行年2026年、翻訳Francisco Torres Oliver・Malvido、収録作の表記(「El relato de Arthur Gordon Pym & La esfinge de los hielos & En las montañas de la locura」、著者Edgar Allan Poe・Jules Verne・Howard Phillips Lovecraft)、紹介文の全文を確認。ヴェルヌの『氷のスフィンクス』を「secuela y homenaje(続編かつオマージュ)」と位置づける記述、ジョーリングがピムの消息を追う筋立ての説明も同ページによる。 https://www.valdemar.com/libro/trilogia-de-la-antartida/ ↩
- [2] H. P. Lovecraft, “At the Mountains of Madness”(1931年執筆/1936年発表)。公式アーカイブの本文を2026年9月14日に取得し、”Poe” が4回、”Tekeli-li” が12回現れることを直接数えて確認した。語り手が「ポーの唯一の長編、不穏で謎めいた『アーサー・ゴードン・ピム』」に触れる場面(“I was interested myself because of the antarctic scene of Poe’s only long story—the disturbing and enigmatical Arthur Gordon Pym.”)も本文中に確認した。 https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/mm.aspx ↩
- [3] H. P. Lovecraft, “Supernatural Horror in Literature”(1927年)、第7章 “Edgar Allan Poe”。「ヴァルドマー氏の症例の真相」に関する一文の直後に置かれた、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の要約箇所を、当サイトが2026年9月14日に公式アーカイブへ直接アクセスして本文中に該当英文を確認した。 https://www.hplovecraft.com/writings/texts/essays/shil.aspx ↩


