概要
アンブローズ・ビアスが1891年に発表した牧歌的な寓話。羊飼いの神ハスターの名が文学史上はじめて登場した作品である。後の神話体系で恐るべき旧支配者となる「ハスター」が、ここでは羊飼いたちの祈りを聞き届ける穏やかで慈悲深い神として描かれており、「カルコサの住人」と並ぶクトゥルフ神話最古層の源流作品にあたる。
作品情報
- 原題: Haïta the Shepherd
- 執筆・発表年: 1891年1月24日発表(サンフランシスコの週刊誌 The Wave 初出。後に作品集『Can Such Things Be?』(1893)、『ビアス全集』第3巻に収録)
- 主題タグ: 羊飼いの神ハスターへの信仰、幸福の寓意、無垢と思索の相剋
登場神格・用語
- ハスター——「羊飼いたちの神」として文学史上初登場。本作では邪神ではない
あらすじ
人里離れた谷間に暮らす若く純朴な羊飼いハイタは、日の出とともに起き、羊飼いの神ハスターの祠に祈りを捧げる敬虔な日々を送っていた。嵐が谷を襲えば、ハスターは山々を住まいの近くに与えてくれたと感謝し、увеличした川が都市を呑もうとすればハスターに執り成しを願う。だがある時から、ハイタは死や自らの出自、存在の意味について思い悩むようになり、憂鬱に沈んでいく。やがて彼は答えを求めることをやめ、義務を果たして生きようと心を定める。するとその前に美しい乙女が現れる——しかし乙女は、名を尋ねれば消え、疑いを口にすれば消え、去らないでくれと乞えばまた消えてしまう。聖なる隠者のもとを訪れたハイタは、あの乙女こそ「幸福」そのものであり、問いただすことなく受け入れる者のもとにしか留まらないのだと教えられる。
読みどころと注目テーマ
本作の見どころは、何と言っても後の邪神ハスターとの落差である。ここでのハスターは祈りを聞き、羊飼いを守る温和な牧神であり、宇宙的恐怖の気配は微塵もない。物語自体は「幸福は追い求めた瞬間に逃げる」という古典的寓意を、乙女の三度の出現と消失という簡潔な構成で描いた美しい寓話であり、ビアスの皮肉と抒情が同居する。「カルコサの住人」の陰鬱な死後の視点と対をなす、明るい側の源流として読み比べると味わいが深い。
執筆背景と影響
本作は「ハスター」という固有名詞の文学史上の初出であり、姉妹篇「カルコサの住人」(1886年)の「カルコサ」「ハリ」と合わせて、ビアスがクトゥルフ神話に遺した固有名詞群の片翼をなす。ロバート・W・チェンバースは短編集『黄衣の王』(1895年)でこれらの名を借用したが、その際ハスターは神ではなく地名や登場人物の名として扱われた。H・P・ラヴクラフトは「囁くもの」(1931年)で神話的存在の列挙の中にハスターの名を書き込み、オーガスト・ダーレスに至って「名状しがたき者」「黄衣の王」としての邪神ハスター像が体系化される。羊飼いの守り神から星間の旧支配者へ——この極端な変貌の出発点を確認できるのが本作である。詳しい系譜はハスター・カルコサの各記事も参照。





