結論: ネクロノミコンは実在しない
先に結論を書きます。ネクロノミコンは、アメリカの作家H・P・ラヴクラフトが自身の小説のために創作した架空の禁書です。狂える詩人アブドゥル・アルハザードが著したという設定の書物であり、これに該当する古写本や原本は現実には存在しません。
ただし話はここで終わりません。「実在しないはずのネクロノミコン」を検索すると、Amazonや古書店で実際に「Necronomicon」というタイトルの本が売られているのを見つけて混乱する人が後を絶ちません。なぜこの誤解が根強いのか、その仕組みを順に見ていきます。
なぜ「実在する」と思われてしまうのか
(1) 作中の書誌情報が異様に精巧
ネクロノミコンが「いかにも実在しそうに」読めてしまう最大の理由は、ラヴクラフトが作中にきわめて具体的な書誌史を書き込んだことにあります。原題は『アル・アジフ』[1]、著者はイエメン・サナアの狂える詩人アブドゥル・アルハザードで、ダマスカスで西暦730年頃に執筆されたとされています[2]。
物語はさらに続きます。西暦950年、コンスタンティノープルの学者テオドロス・フィレタスがこの書をひそかにギリシャ語へ翻訳し、このとき初めて『ネクロノミコン』という書名が与えられました[3]。1228年にはオラウス・ウォルミウスによるラテン語訳が作られ[4]、その4年後の1232年、教皇グレゴリウス9世がラテン語版・ギリシャ語版の双方を禁書に指定したことになっています[5]。写本の一部は大英博物館やハーバード大学ワイドナー図書館、架空のミスカトニック大学図書館に所蔵されているという設定まで用意されました[6]。
年号・地名・実在の教皇・実在の図書館の名前を織り交ぜたこの書誌史は、実際の稀覯書研究の書式をなぞっています。読者が「どこかで本当に読んだことがある話では」と錯覚するように作られている、と言えます。
(2) 複数の作家が同じ書物を使い、相互参照が生まれた
ネクロノミコンはラヴクラフト一人の作品にとどまりませんでした。彼と交流のあった同時代の作家たちが、自分の小説の中でもこの書物に言及したのです。同じ架空の書物が複数の作品をまたいで引用されると、あたかも実在する古典文献であるかのような重みが積み上がっていきます。こうした「複数の作家が世界観を共有する」というクトゥルフ神話特有の作り方については、原典/ダーレス系拡張/TRPG設定——三層で読み解くクトゥルフ神話で扱っています。
(3) 後年、実在するかのように出版された本が複数ある
決定的なのは、20世紀後半に「これが本物のネクロノミコンだ」と称する書籍が実際に出版されたことです。代表例が「サイモン」という筆名で刊行されたサイモン・ネクロノミコンで、1980年にはAvon Booksからペーパーバック版が出ています[7]。シュメール神話の呪文や印章図版を収めた「儀式書」の体裁を取り、ラヴクラフト由来の神格名も織り込まれています。日本語圏では、ジョン・ディー博士の暗号文書を解読したという体裁のジョージ・ヘイ版『魔道書ネクロノミコン』が学研から翻訳出版されており[7]、古書店や書店の店頭で見かける機会はむしろこちらの方が多いかもしれません。
「実在する禁書としてのネクロノミコン」という都市伝説自体は、ラヴクラフトの生前にあたる1930年代からすでに囁かれていたとされます。サイモン版やヘイ版は、その都市伝説を商業的に具現化した後発の作品にあたります。
「実在しない」と「本として買える」は両立する
ここまでの話を整理すると、矛盾しているように見えて実は矛盾していません。
- ラヴクラフトが設定した架空の禁書としてのネクロノミコンは存在しません。アブドゥル・アルハザードという著者も、ダマスカスでの執筆も、すべてラヴクラフトの創作です。
- 「ネクロノミコン」というタイトルを掲げた現実の出版物は複数存在します。ただしサイモン版もヘイ版も、ラヴクラフトの死後(1937年)何十年も経ってから、まったく別の著者・別の内容で作られたものであり、ラヴクラフトが書いた設定の「実物」や「完全版」ではありません。
サイモン版については、研究者による調査で、記述の多くが既存のシュメール・アッカド学の文献からの引用・翻案であり、独自の一次資料に基づくものではないと指摘されています[8]。「実在するネクロノミコンを手に入れた」という体験は成立しても、それは「ラヴクラフトの禁書の実物」を手に入れたことには、書誌的にはなりません。
まとめ: 実在しないからこそ、層で追える
ネクロノミコンが実在しないという事実は、この書物を退屈にするどころか、調べがいのある対象にしています。ネクロノミコン本体の記事ではラヴクラフト自身が書いた書誌史を、アル・アジフでは原題の設定を、アブドゥル・アルハザードでは著者とされる人物の設定を、サイモン・ネクロノミコンでは後年の現実の出版史を、それぞれ個別に確認できます。「誰が」「いつ」「どの層で」書き足したのかを追えるのは、これが最初から最後まで一人の作家の空想として設計された書物だからです。
出典
- [1] “Al Azif—azif being the word used by Arabs to designate that nocturnal sound (made by insects) suppos’d to be the howling of daemons.”(訳: 「アル・アジフ——アジフとは、アラブ人が夜間に聞こえる、悪魔たちの遠吠えと考えられていた(昆虫による)物音を指すのに用いた語である」) — H. P. Lovecraft, “History of the Necronomicon”(1927年頃執筆), hplovecraft.com ↩
- [2] “Composed by Abdul Alhazred, a mad poet of Sanaá, in Yemen”(訳: 「イエメンのサナアの狂える詩人アブドゥル・アルハザードによって著された」)。執筆地・年代は年表部分に “Al Azif written circa 730 A.D. at Damascus by Abdul Alhazred”(訳: 「『アル・アジフ』は西暦730年頃、ダマスカスにてアブドゥル・アルハザードによって執筆された」)とある — 同上, hplovecraft.com ↩
- [3] “In A.D. 950 the Azif, which had gained a considerable tho’ surreptitious circulation amongst the philosophers of the age, was secretly translated into Greek by Theodorus Philetas of Constantinople under the title Necronomicon.”(訳: 「西暦950年、当時の哲学者たちの間で相当ながらも人目を忍んだ流布を得ていた『アジフ』は、コンスタンティノープルのテオドロス・フィレタスによって密かにギリシャ語に翻訳され、『ネクロノミコン』の題を与えられた」) — 同上, hplovecraft.com ↩
- [4] “Olaus translates Gr. to Latin 1228″(訳: 「オラウスがギリシャ語からラテン語へ翻訳、1228年」) — 同上, hplovecraft.com ↩
- [5] “The work both Latin and Greek was banned by Pope Gregory IX in 1232, shortly after its Latin translation, which called attention to it.”(訳: 「ラテン語訳が世の注目を集めた直後の1232年、ラテン語版・ギリシャ語版ともに教皇グレゴリウス9世によって禁書とされた」) — 同上, hplovecraft.com ↩
- [6] “one (15th cent.) is known to be in the British Museum under lock and key…A seventeenth-century edition is in the Widener Library at Harvard, and in the library of Miskatonic University at Arkham”(訳: 「一冊(15世紀のもの)は大英博物館に厳重に保管されていることが知られている……17世紀版はハーバード大学ワイドナー図書館と、アーカムのミスカトニック大学図書館にある」) — 同上, hplovecraft.com ↩
- [7] サイモン版の初版(1977年、Schlangekraft Inc. 刊とされる)の書誌は、当サイトが出典に使える資料(公式・学術・編集体制のあるメディア)では確認していない。1980年のAvon Books版の書誌はarchive.org: The necronomicon(New York: Avon Books, 1980)、日本語版『魔道書ネクロノミコン〈完全版〉』(ジョージ・ヘイ編、大瀧啓裕訳、2007年3月15日刊)の書誌は学研公式サイト参照。なお、後年のBantam Books版の存在は当サイトでは確認していない ↩
- [8] サイモン版の記述の多くが、アッシリア学者R・C・トンプソンの著作『The Devils and Evil Spirits of Babylonia』など既存のシュメール・アッカド学の学術文献からの翻案であり、原典では悪霊祓いの呪文だったものが、サイモン版では悪霊を喚び出す呪文であるかのように文脈が変えられている、との指摘がある。”Simon’s text plagiarizes the work of pioneering Assyriologists like R.C. Thompson, from whose Devils and Evil Spirits of Babylonia…many of the translations are lifted.”(訳: 「サイモンのテキストは、R・C・トンプソンのような先駆的なアッシリア学者たちの仕事を剽窃しており、その『The Devils and Evil Spirits of Babylonia』などから多くの翻訳が借用されている」)、”In their original context, these texts were incantations against evil spirits and the various ills they caused, not spells for conjuring them.”(訳: 「原典の文脈では、これらのテキストは悪霊やそれがもたらす災いを祓うための呪文であり、悪霊を喚び出すための呪文ではなかった」) — Gabriel McKee, “The Necronomicon and the Misappropriation of Ancient Texts,” Institute for the Study of the Ancient World(New York University), 2015年10月27日, https://isaw.nyu.edu/library/blog/necronomicon ↩

