短編小説 — HE

彼

詩人になるつもりでニューヨークへ来た語り手は、この都市が「死んでいる」と悟る。眠れぬ夜のグリニッジで、時代遅れの身なりの老人に導かれ、丘の上の古い屋敷の窓から、この土地の過去と未来を見せられる。1925年8月11日執筆、1926年9月『ウィアード・テイルズ』誌発表。ラヴクラフト自身のニューヨーク嫌悪が、語り手の口を借りてそのまま書かれた約4,300語の短編。

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彼

「私が彼を見たのは、自分の魂と幻視とを救おうと必死に歩き続けていた、ある眠れぬ夜のことだった。ニューヨークへ来たこと自体が間違いだったのだ」

— H・P・ラヴクラフト「彼」(1925年執筆)冒頭
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概要

「ニューヨークへ来たこと自体が間違いだった」——語り手は二文目でそう言い切ります[1]。橋の上から夕日に見た都市は、カルカソンヌやサマルカンドと並ぶ夢の都でした。けれど昼の光が見せたのは「汚穢と異質さ」で、街には「夢を持たず、周りの景色と何の血縁もない」人々が群れていた[1]。そして語り手は、誰も口にしなかった秘密に行き着きます。

the fact that this city of stone and stridor is not a sentient perpetuation of Old New York as London is of Old London and Paris of Old Paris, but that it is in fact quite dead, its sprawling body imperfectly embalmed and infested with queer animate things which have nothing to do with it as it was in life(訳: この石と騒音の都市は、ロンドンが古いロンドンの、パリが古いパリの生きた延長であるようには、古いニューヨークの延長ではない。それは実のところまったく死んでいて、その広がった身体は不完全に防腐処理され、生前のそれとは何の関係もない奇妙な生き物たちに寄生されているのだ)[1]

眠れぬ夜、語り手はグリニッジの古い路地で「彼」に出会います。約4,300語の短編で、題の「彼」は最後まで名前を持ちません。

作品情報

  • 執筆: 1925年8月11日[2]
  • 発表: 1926年9月、『ウィアード・テイルズ』誌 vol.8 no.3、373-380頁[3]
  • 分量: 約4,300語[1]
  • 舞台: ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジの古い路地と、丘の上の屋敷。語り手が最後に見つかるのはペリー街の小さな中庭の入口[1]
  • 原稿: タイプ原稿がブラウン大学デジタル・リポジトリで公開されている[3]
  • 主題タグ: ニューヨーク、都市への幻滅、時間の窓、収奪の報い

登場神格・用語

  • 「彼」 — 名のない老人。「気高い、美しいとさえ言える老いた顔」だが「白すぎ、無表情すぎ」、握った手は「氷の質」[1]。18世紀の綴りと訛りで話す(“sartain”、”desarving”)
  • 1768年の郷士(スクワイア) — 「彼」が語る、この土地を継いだ人物。「空間や時間ほど偉大なものの神聖を嘲り」、この丘に野営していた「混血の先住民たち」の儀式を「奇妙な用途に」使った[1]
  • 神格・禁書は登場しません。この作品の超自然は、窓の外に映る過去と未来だけです

あらすじ

出会い。眠れぬ夜、グリニッジの人けのない路地で、語り手は時代遅れの服装の男に声をかけられます。男は、自分も昔の名残を愛する者で、土地に通じた案内人になれると言う。屋根裏の窓から漏れる黄色い光に浮かんだその顔は気高く、しかし「白すぎ、無表情すぎ、この土地にそぐわなすぎて」語り手を落ち着かなくさせました[1]。それでも彼は従います。「現実の空虚と恐怖」を思えば、どこへでも行く気だったからです。

屋敷。迷路のような路地を抜け、蔦の絡む壁と、丘の上の古い屋敷へ。「彼」は語ります。この土地は1800年以降にグリニッジが、1830年ごろにニューヨークが囲い込む前から一族のものだった。1768年にここを継いだ郷士は「ある種の術(sartain arts)」を学び、この土地に宿る力について発見をした、と[1]。

その郷士は、丘に野営していた先住民たちが満月の夜に忍び込んで行う儀式を「’68年」に目撃し、彼らと取引をします。土地への出入りを許す代わりに、儀式の中身を教わる[1]。

窓。「彼」は語り手の腕を掴み——その肉は乾いて固く、氷のようで——黄色い絹のカーテンを開けます。

一度目の閃光。屋根の海ではなく、手つかずの緑の海。右手にはハドソン川が光っていた[1]。「あれは私の時代より前、新しい郷士の時代より前だ」。

二度目。かつてのグリニッジ。緑の小道と野原と共有地、遠くにトリニティ教会とセント・ポール教会とブリック教会の尖塔、その上に薪の煙の霞[1]。「あなたは——どの時代へでも行けるのか」。老人は頷き、「かつて黄色い牙だったものの黒い根」を剥き出します。

三度目。語り手が「遠くまで、行けるのか」と尋ねると、老人は「前へ、前へ——見ろ、この泣き言の間抜けめ!」と唸り、これまでで最も強い閃光を呼びます。

I saw the heavens verminous with strange flying things, and beneath them a hellish black city of giant stone terraces with impious pyramids flung savagely to the moon, and devil-lights burning from unnumbered windows.(訳: 私は見た。奇怪な飛行物に虫のように覆われた空を。その下に、巨大な石の段丘と、月へ向かって荒々しく投げ上げられた不敬なピラミッドからなる、地獄のような黒い都市を。数え切れない窓から燃える悪魔の灯を)[1]

語り手は沈黙の言いつけを忘れて叫びます。叫びが壁を震わせたとき、老人もまた震えていました[1]。

足音。外から扉を叩く音。「彼」は黄色いカーテンを掴んだまま、暗闇に向かって吠えます。

“The full moon—damn ye—ye . . . ye yelping dog—ye called ‘em, and they’ve come for me! Moccasined feet—dead men—Gad sink ye, ye red devils, but I poisoned no rum o’ yours—han’t I kept your pox-rotted magic safe?—ye swilled yourselves sick, curse ye, and ye must needs blame the squire(訳: 「満月だ——呪われろ——貴様……貴様、きゃんきゃん吠える犬め——貴様が呼んだ、それで奴らが俺を迎えに来た! モカシンの足音——死人ども——地獄に落ちろ、赤い悪魔ども、だが俺は貴様らのラム酒に毒など入れちゃいない——貴様らの梅毒に腐った魔術を、俺は守ってきたじゃないか——勝手に飲んで病んだくせに、呪われろ、郷士のせいにしやがる)[1]

「彼」は1768年の郷士本人でした。先住民から儀式を奪い、口封じをし、その術で150年以上生き延びてきた男が、満月の夜に「モカシンの足」に追いつかれます。

黒いもの。扉が三度、ゆっくりと叩かれます。老人は「縮み、黒ずみ」、語り手に爪を伸ばしながら炭のように崩れていく。残ったのは目だけでした。「目だけは無傷で、周りの顔が焦げて縮むにつれ、膨れ上がった白熱を放って睨んでいた」[1]。扉が砕け、黒い奔流が部屋へなだれ込みます。

落下。床が沈み、語り手は窓から外へ這い出し、石の壺にしがみつき、そして落ちます。見つけた男によれば、骨を折ったまま長い距離を這ったらしく、血の跡が続いていた。彼が現れたのは「ペリー街の小さな黒い中庭の入口」でした[1]。

読みどころと注目テーマ

都市への告発が、そのまま地の文になっている。この作品の語り手が言う「ニューヨークは死んでいる」は、物語の前提として置かれ、窓の外の光景はすべてその証明として機能します。そしてその前提の根拠として並べられるのは、街を歩く人々の顔でした。

the throngs of people that seethed through the flume-like streets were squat, swarthy strangers with hardened faces and narrow eyes, shrewd strangers without dreams and without kinship to the scenes about them(訳: 樋のような街路にひしめく群衆は、ずんぐりした浅黒い他所者たちで、硬い顔と細い目をし、夢を持たず、周りの景色と何の血縁もない抜け目のない他所者たちだった)[1]

ここには、レッド・フックの恐怖と同じ、移民への嫌悪があります。三度目の窓に映る未来の都市の住人が「黄色い、細目の人々」と書かれるのも同じ系統です[1]。当サイトはこれを、作品の恐怖の源泉として書かれたものとして記録し、同時に欠点として記録します。語り手が最後に帰るのは「清らかなニューイングランドの小道」で、この対比が作品の価値判断をそのまま示しています[1]。

報いは、収奪した側に来る。一方でこの作品の超自然の筋は、奪った者が奪われた者に追いつかれる話です。郷士は先住民の儀式を取引で手に入れ、彼らを毒殺した疑いを最後まで否認しながら、満月の夜に「モカシンの足音」に迎えに来られます[1]。都市への嫌悪と、土地の収奪への報いが、同じ作品の中に並んでいます。どちらか一方だけを取り出して読むと、この作品の形は見えません。

窓が時間を映す。閃光のたびに、同じ窓が違う時代を映します。緑の海、古いグリニッジ、黒い都市。「彼」が「前へ、前へ」と言うとき、語り手が見せられるのは、いま「死んでいる」と語り手が言う都市の、さらに先の姿です[1]。ラヴクラフトが時間そのものを恐怖の道具にする書き方は、後年の「時間からの影」で全面化しますが、ここではまだ、一枚の窓の中に収まっています。

目だけが残る。老人の身体が黒ずんで崩れたあと、目だけが「不滅の悪意の、弱々しい小さな唾を吐きながら」床を這おうとします[1]。150年生きた男の最後を、ラヴクラフトは身体の消滅ではなく、目の残存として書いています。

執筆背景と影響

執筆は1925年8月11日[2]。「レッド・フックの恐怖」(8月1〜2日)の9日後で、翌1926年3月には「冷気」が続きます。三作ともニューヨークが舞台で、ラヴクラフトがこの都市に住んでいた時期の作品です。

発表は1926年9月の『ウィアード・テイルズ』誌[3]。

「ニューヨークへ来たことは間違いだった」という語り手の告白を、ラヴクラフト自身の心境と重ねて読む解釈は広く行われています。ただし当サイトは、その根拠となる書簡に当たっていないので、ここでは本文に書かれていることだけを扱います。本文に書かれているのは、詩人になるつもりで来た男が、都市を「死体」と見なし、最後に「香り高い海風が夕方に吹き上がる、清らかなニューイングランドの小道」へ帰った、ということです[1]。

過去と未来を窓に映す屋敷という道具立ては、2年後の「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」で、18世紀から生き延びる魔術師という形に引き継がれます。1768年の郷士とジョゼフ・カーウェンは、同じ世紀の、同じ種類の人物です。

出典

  • [1] H. P. Lovecraft “He”(1925年8月11日執筆)。冒頭、都市が「死んでいる」という一節、老人の外見と手の冷たさ、1768年の郷士と先住民の儀式、窓の三つの光景、扉の音と老人の叫び、黒ずんで崩れる場面、落下とペリー街、結末は、いずれも公式アーカイブの公開テキストによる。語数は同テキストを2026年9月4日に数えた https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/he.aspx
  • [2] The H. P. Lovecraft Archive 小説年表。執筆日(1925年8月11日)、および「レッド・フックの恐怖」(同年8月1〜2日)の執筆日は同年表による https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/
  • [3] The H. P. Lovecraft Archive “He” 作品情報ページ(2026年9月4日確認)。『ウィアード・テイルズ』誌 vol.8 no.3(1926年9月)373-380頁への掲載、ブラウン大学デジタル・リポジトリ所蔵のタイプ原稿は同ページによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/fiction/he.aspx

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