概要
語り手は、アラビアの荒れ果てた谷を月明かりの下でラクダとともに進み、砂の中から不気味に突き出た「名もなき都市」を見つけます。地元のアラブ人たちが名も伝えず理由も語らず忌み嫌ってきた場所だと知りながら、語り手はあえてそこへ踏み込みます。夜明けを待ってから廃墟に入った彼は、崩れた基礎の跡を掘っても手がかりを得られません。それでも岩肌を穿った低い神殿の遺構を見つけ、狭い入口から這って中へ入ります。祭壇、柱、記号めいた石――残るのはそれだけで、彫刻も壁画もほとんどありません。
三つ目の、より大きな神殿では地下から吹き出す冷たい風に導かれ、岩を刻んだ小さな扉と、そこから下る狭く急な階段を発見します。松明を頼りに幾時間も這うように降り続けた語り手は、ようやく水平な床にたどり着き、木製で硝子張りの棺のような箱が並ぶ回廊に出ます。やがて地底の燐光に照らされて、その正体が爬虫類じみた古代生物のミイラであり、壁と天井いっぱいに、この種族が築いた文明の興亡を描いた壁画が広がっていることを知ります。壁画が物語るのは、海に面した巨大な都市が海の後退と砂漠の浸食のなかで衰え、ついに種族が地下深くへ道を穿って別世界へ去っていく顛末です。
回廊の果てには、開け放たれたままの巨大な真鍮の扉があり、その先には光に満ちた底知れぬ深淵が広がっていました。疲れ果てて座り込んだ語り手のもとに、夜明けとともに地下へ吹き込む強風が再び押し寄せ、彼の体を扉の奥へ引きずり込もうとします。抗う語り手の前に、爬虫類の姿をした亡霊の群れが深淵の光を背にして殺到し、風がやむと同時に真鍮の扉は轟音とともに閉じます。その響きは太陽を迎える金属音のように地上へ届き、物語は幕を閉じました。
作品情報
- 原題: The Nameless City
- 執筆: 1921年1月[2]
- 初出: 『The Wolverine』第11号、1921年11月、3–15ページ[3]
- 分量: 約5,000語(公式アーカイブ本文を機械集計)。章分けなし
- 語り: 名前の明かされない一人称の語り手。アラブ人が忌避する地へ単身踏み込んだ旅人として描かれ、職業名など具体的な素性は本文に無い
- 舞台: アラビアの砂漠に埋もれた「名もなき都市」の廃墟と、岩窟の神殿群からさらに下る地下通路、その果てにある光り輝く深淵
- 主題: 人間の歴史よりはるかに古い時代に築かれ滅びた文明の痕跡、それに触れた者が抱く畏怖
登場神格・用語
- 名もなき都市 — 舞台となるアラビア砂漠の廃墟。本文は「メンフィスの最初の石が置かれるより前、バビロンの煉瓦がまだ焼かれていない頃から」存在したと語る
- アブドゥル・アルハザード — 本文では「狂える詩人」「狂えるアラブ人」と呼ばれる。「永遠に横たわるものは死んでいるのではない、そして奇怪なる悠久のうちに死もまた死ぬことがある」という二行連句が、冒頭と終盤の二度、語り手の口から諳んじられる
- サルナスとイブ — 廃墟を歩きながら語り手が思い浮かべる太古の地名。「サルナス」は「人類がまだ若かった頃、ムナールの地にあった」都市として、「イブ」は「人類が存在する前に灰色の石から刻まれた」ものとして名指される
- ダマスキオス、ゴーティエ・ド・メスの『Image du Monde』、アフラシアブとオクサス川に浮かぶ悪魔たち、ロード・ダンセイニの物語の一節、トマス・ムーアの詩 — 語り手が暗闇の中の恐怖を紛らわすために暗誦する、実在または架空の文献・詩の断片として名前だけが挙げられる。本文はそれぞれの内容までは語らない
- イレム(柱の都) — 壁画の最後の場面に「古のイレム、柱の都の先駆者」と思われる原始的な人間が描かれ、かの種族に八つ裂きにされる
あらすじ
太古の都市への到達
月に照らされた乾いた谷を進む語り手は、遠くの砂の中に「こしらえの悪い墓から死体の一部がのぞくように」不気味に突き出た都市を見ます。近づく前から「それは呪われている」と悟り、見えない何かに追い返されるような気配を感じながらも、彼はラクダとともに足を止めません。都市を前にして語り手は夜明けまでその場で待ち続け、東の空が白むころ、澄み渡った空の下で古い石の間に砂嵐が渦を巻くのを目にします。太陽が昇った瞬間、遠い地の底から金属質の音楽が響いた気がして、彼はナイル河畔でメムノンを迎える響きを連想し、この地をエジプトやメロエさえ記憶しないほど古い場所だと思います。この地こそ、狂える詩人アブドゥル・アルハザードが、かの不可解な二行連句を歌う前夜に夢に見た場所だといいます[1]。
廃墟の探索と岩窟の神殿
昼の光の下で崩れた基礎を掘っても、語り手は都市を築いた者たちの正体を示す彫刻や銘文を一つも見つけられません。壁の比例や寸法にはどこか気に入らないものがあり、彼はこの地の途方もない古さを思い、サルナスやイブといった、人類の記憶よりさらに昔の都市に思いを馳せます。やがて岩肌が砂の上に露出した低い崖に、いくつもの小さく四角い神殿の正面が刻まれているのを見つけ、スペードで砂を掻き分けて入口を一つ開け、松明を手に這い込みます。中は祭壇や柱、壁龕がどれも異様に低く、彫刻や壁画は無いものの、人工的に形作られた石の記号だけは多く見られました。ある一角では、祭壇や石の配置が「恐ろしく、忌まわしく、説明のつかない儀式」を思わせ、語り手はどのような者たちがここで祈ったのかと考え込みます[1]。
風が導く地下への扉
日が暮れてから新たな松明で入った二つ目の神殿は、幅こそ狭いものの、奥へ行くほど得体の知れない祠が並ぶ通路になっていました。それらを探っている最中、ラクダの怯える物音に気づいた語り手は外に出て、崖沿いのある一点から吹き出す冷たい風に導かれ、他より大きな三つ目の神殿にたどり着きます。その入口からは激しい風が吹き出し松明の火を消しかけるほどだったが、風がやみ砂が静まった後には、まるで不穏な水面に映るように月が揺らめいて見えたと語り手は記しています。踏み込むと、そこは自然の洞窟のように上に立てるほど広く、初めて彩色の痕跡や曲線的な浮き彫りが壁と祭壇に残っていました。松明の光の中、彼は岩を穿った小さな人工の扉と、その奥に続く狭く急な階段を見つけます。ためらいながらも彼は足から先にその階段を降り始め、際限なく続くような暗闇の中で方向や勾配の変わる道を這い進んでいきました。松明が消えた後も、語り手は恐怖に抗うようにアルハザードの文言やダマスキオスの記録、ゴーティエ・ド・メスの『Image du Monde』の一節、アフラシアブとオクサス川に浮かぶ悪魔たちのことをつぶやき、ダンセイニ卿の物語から「反響なき深淵の闇」という一句を唱え、さらに勾配が急になった箇所ではトマス・ムーアの詩の一節――「もし足が通れるかと覗き込めば、その底は、まるで艶を塗ったかのように滑らかな黒漆の壁であった」――を諳んじます[1]。
爬虫類の遺物と刻まれた年代記
時間の感覚を失うほど降り続けた末、語り手は再び水平な床に達し、木と硝子でできた棺に似た箱が両側に並ぶ狭い通路を手探りで進みます。やがて地底の燐光に照らされて、通路が精緻な壁画で覆われた壮麗な空間であること、そして箱の中身が鰐や海豹を思わせる体つきの、爬虫類じみた生物のミイラであることが見えてきます。前脚には人間の指のようにしなやかそうな、細やかな指が備わっていました。頭部は猫やブルドッグ、牧神、あるいは人間さえ思わせる要素を宿しながら、額の隆起はユピテル像さえこれほど巨大ではなかったといい、角があり鼻が無く鰐に似た顎を持つなど、既知のどの分類にも当てはまらないと語り手は記しています。ミイラの多くは豪奢な衣を纏い、金や宝石で飾られ、語り手は一時これを人工の偶像かと疑いますが、じきに名もなき都市が生きていた頃の一つの種族なのだと判断します。壁画はこの生物を中心に据えており、そこから語り手が読み取るのは、海に面した強大な都市国家がアフリカの隆起以前に世界を支配し、やがて海が退き砂漠が迫るなかで衰え、ついに民の多く(壁画では爬虫類として寓意的に描かれる)が岩を穿って別世界へ去っていったという一連の歴史です。壁画には戦乱や疫病による死は描かれても、自然死や葬送の場面は無く、あたかも現世での不死を信じていたかのようだった――語り手はそう記しています。通路の終盤に近づくにつれ壁画の技巧は粗くなり、痩せ衰えていく民の姿とともに、地上を呪う神官らしき姿や、「古のイレム、柱の都の先駆者と思われる原始的な人間」がかの種族に八つ裂きにされる最後の一場面が描かれていました。最も新しい壁画の地図は、人類の記憶に残らない海と大陸を描き、かろうじて見覚えのある輪郭がところどころに残るのみだったといいます[1]。
光る深淵と閉ざされる真鍮の扉
壁画の連なりの果てで、語り手は通路の終端が巨大な門になっていることに気づきます。その先に広がるのは、エヴェレストの頂から陽光に満ちた雲海を見下ろすかのような、一様に輝く底知れぬ空間で、小さな階段が数段先まで続いた後、光る霧の中に消えていました。通路の左手には、幻想的な浮き彫りで飾られた分厚い真鍮の扉が開け放たれたまま据えられ、閉じればこの光の世界を岩の通路から完全に遮断できるようでした。語り手は階段に踏み出す勇気が出ず、扉に触れても動かせないまま、その場に倒れ込んで壁画の意味を思い返します。やがて時計を見て夜明けが近いと気づいた矢先、遠くから低い呻きのような音が近づき、地下へ吹き込む冷たい強風が再び彼を襲います。風は次第に凶暴さを増し、語り手を光る深淵へ向けて滑らせ始め、彼は必死に床にしがみつきながら、恐怖のあまりアルハザードの二行連句を繰り返しつぶやきました。やがて風の唸りの中に、憎悪に歪み半ば透き通った、あの爬虫類の種族そのものと分かる亡霊の群れが深淵の光を背にして押し寄せるのが見えます。風がやむと同時に巨大な真鍮の扉は轟音とともに閉じ、その金属音はナイル河畔でメムノンを迎える響きのように、遠く地上の世界にまで届いたところで物語は幕を閉じます[1]。
読みどころと注目テーマ
古さそのものが恐怖の中心にあること
本文を通じて語り手を苛むのは、都市や壁画、風そのものが背負う途方もない古さです。牙や爪を持つ怪物は最後まで現れず、ミイラも壁画も動くことなくただそこにあり続けます。本文が記すのは「計測の術さえ無力なほど途方もない古さ」がこの場を見下ろしていた、という一節です。物語の終盤で押し寄せる亡霊も、語り手に直接触れることなく、扉が閉じることで危機は宙に浮いたまま終わります。
実在の書物・詩句を織り交ぜた暗誦の場面
地下へ降りる暗闇の中、語り手はアルハザードの文言、ダマスキオスの記録、ゴーティエ・ド・メスの『Image du Monde』、アフラシアブの伝承、ダンセイニ卿の一句、トマス・ムーアの詩を次々に諳んじます。実在の詩人や歴史上の名と架空の人物の名が同列に並べられ、語り手の博識と精神の危うさの両方が、彼自身が口にする言葉の連なりを通じて伝わってきます。
壁画が語り、本文が語らずに終える文明の顛末
壁画は都市を築いた種族の興亡をかなり詳細に描きますが、なぜ死や葬送の場面を避けたのか、光る深淵の先に何があるのかは、語り手の推測を超えて明かされません。真鍮の扉が閉じた後に何が起きたのかも本文には書かれておらず、語り手自身「本当に何が起きたかは、陰鬱に思い沈む砂漠の神々だけが知っている」と述べるにとどまります。
執筆背景と影響
公式アーカイブによれば、本作は1921年1月に執筆され[2]、同年11月に『The Wolverine』第11号(3–15ページ)に発表されました[3]。着想の経緯や、この時期の他の執筆活動との関わりなど、それ以上の成立背景は公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Nameless City” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/nc.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1921年1月)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Nameless City'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/nc.aspx初出『The Wolverine』第11号(1921年11月)3–15ページの出典。
関連作品ガイド ── どれから楽しむか
- 名もなき都市(地名記事) — 本作の舞台となる廃墟そのものを扱った記事
- アブドゥル・アルハザード — 本文で語り手が二度諳んじる二行連句の作者
- サルナス — 本文で語り手が都市の古さを思う中で名を挙げる、ムナールの地にあったという都市
- サルナスの滅亡 — 本文でサルナスとイブの名が言及される


