概要
スミスのヒュペルボレア・シリーズに登場する存在の中でも、最も徹底的に「生命の本質的な不潔さ」を具現化した恐怖がアブホースである[1]。灰白色のネバネバした液体の塊であるこの存在は、生命を創造するプロセスそのものを一種の自己汚染・自己毒化として表現している。原典では「あらゆる宇宙的不浄の父にして母」と称される[2]。美しい理想主義や進化の段階的発展といった概念を根底から否定する、スミスの黒暗的哲学の最たる象徴である。
基本プロフィール
- 分類: 旧支配者
- 欧文表記: ABHOTH
- 初出: クラーク・アシュトン・スミス「七つの呪い」(1934年)
- 象徴するテーマ: 不浄、自己捕食、退化的生殖、地下深部
- 棲息地: ヴルミタドレス山の最奥部、ヒュペルボレアの地下世界(原典では元型たちの洞窟と同じ層にある深い洞窟とされる)[3]
性質と権能
アブホースは「池」というより、むしろ活動する有機体そのものである。灰白色で粘液質のその肉体から、絶え間なく様々な形態の「落とし子」が分離・繁殖する[1]。人間の手足や頭部、あるいは未分類の四肢や目玉といった身体部位が、池の表面から這い出ては[4]、アブホース自身の触手に捕捉され、再び吸収される。原典では、池から素早く岸へ泳ぎ出なかった落とし子は、親なる肉塊に開く口に貪り喰われるとされる[5]。この果てしない出現と回帰のサイクルは、単なる繁殖ではなく、一種の絶望的な自己複製の強迫観念に見える。
アブホースに意思や目的があるのか定かではない。知性は存在するが、それは人間的な理性からは全く隔絶されている。地上の歴史や世界情勢に対して、この存在は永遠に無関心である。唯一の営みは、落とし子たちを不断に生み出し、それらを貪食し、再び排出することのみ。この無限のループこそが、アブホースの本質である。
身体的特徴と形態
ネバネバした灰色の液体という基本形態の他、具体的な記述は曖昧である。むしろその不定形さこそが恐怖の源泉である。時に数メートルの高さまで膨れ上がり、時に奥深い裂け目へと沈む。表面には多数の触手が蠢動し、新たに出現した落とし子たちを器用に操作する。その肉体からは、腐敗と有機的な液体の異臭が放たれている。
ヴルミタドレス山の最深部、光が一切到達しない地底世界に棲息する。この存在は永遠に、この暗い池から離れることはない。あるいは、これ以上に下層の地下があるのかもしれず、アブホース自身がさらに巨大な何かの一部である可能性さえ示唆されている。
主要登場作品と役割
『七つの呪い』では、地底の魔術的な迷路に迷い込んだ魔術師が、やがてアブホースの棲所へと至る。その冒涜的な光景は、登場人物に根深い精神的な破滅をもたらす。人間の理性と道徳的価値観が、この存在の無意識的な営みの前で完全に無力化される経験こそが、スミスの意図した恐怖の核心である。
より深い考察
アブホースが体現するのは、「生命とは本来、不潔で無意味な過程である」という反啓蒙的な哲学である。19世紀から20世紀初頭の進化論や科学主義への信奉に対して、スミスは「進化とは退化である」「生殖とは自己毒化である」という逆説的なメッセージを提示した。
アブホースの落とし子たちは、種を超えた混合物である。人間の器官と非人間的な形態が混在し、どれもが不完全で醜怪である。これは、ダーウィン進化論によって秩序立てられた「自然界の階梯」への侮辱であり、むしろ生命そのものは根源的に雑多で無秩序な混沌から生じているという認識を示唆している。
自己捕食のサイクルもまた象徴的である。出現した落とし子たちは、アブホースの一部であるがゆえに、最終的には母体へと吸収されなければならない。完全な独立と自由は存在しない。すべての個体は、その源泉に回帰することを宿命づけられている。
他の存在との関係
ウボ=サスラとの類似性は見過ごせない。両者とも、地球の先史的な時代に存在した原初の生命力の遺存者であり、無定形の肉体を持ち、不可思議な繁殖能力を有している。しかし、ウボ=サスラが「すべての生命の母」として半ば敬虔な扱いを受けるのに対して、アブホースは純粋に嫌悪と恐怖の対象である。スミスは、同じ原初的な生命の原理でも、その「呈示方法」によって、神聖さと不浄さが相反することを示そうとしたのであろう。
ツァトゥグァもまたヒュペルボレアの地底に棲息するが、アブホースとは直接的な関係が記録されていない。各々が異なる領域の支配者であり、相互の領域を侵さぬ無言の協定があるのかもしれない。
この存在に出会うために
クラーク・アシュトン・スミスのヒュペルボレア・シリーズへの入門としては、『七つの呪い』が最良である。スミスの散文は華麗で難解だが、その美しい文体の中に吐き出される醜悪さの対比こそが、コズミック・ホラーの本質を示している。日本語訳も複数存在し、『ラヴクラフト全集』の中に収録されているものもある。
アブホースを含むスミスの世界観は、ラヴクラフトのそれとは異なる独特の美学を持つ。むしろ「怖さ」よりも「不快感」に訴えかけてくる。その違いを理解することで、クトゥルフ神話全体のバリエーションと深さが見えてくるだろう。
出典
- [1] “Here, it seemed, was the ultimate source of all miscreation and abomination. For the gray mass quobbed and quivered, and swelled perpetually; and from it, in manifold fission, were spawned the anatomies that crept away on every side through the grotto.”(訳: 「ここにこそ、あらゆる奇形と忌まわしきものの根源があるように思われた。灰色の塊はどくどくと脈打ち震え、絶え間なく膨れ上がり、そこから幾重にも分裂したものが、洞窟のあらゆる方向へと這い出ていった」) — Clark Ashton Smith, “The Seven Geases”(1934年), Wikisource ↩
- [2] “Therefore we put you under a geas: depart without delay from the Cavern of the Archetypes, and seek out the slimy gulf in which Abhoth, father and mother of all cosmic uncleanness, eternally carries on Its repugnant fission.”(訳: 「よって我らはお前に誓約(ギース)を課す。直ちに元型の洞窟を去り、あらゆる宇宙的不浄の父にして母たるアブホースが、忌まわしき分裂を永遠に続けているぬめる深淵を探し出せ」) — 同上, Wikisource ↩
- [3] “a deep cavern on the same level as that of the Archetypes”(訳: 「元型たちの洞窟と同じ層にある深い洞窟」、原文からの抜粋句) — 同上, Wikisource ↩
- [4] “There were things like bodiless legs or arms that flailed in the slime, or heads that rolled, or floundering bellies with fishes’ fins; and all manner of things malformed and monstrous, that grew in size as they departed from the neighborhood of Abhoth.”(訳: 「そこには肢体だけの脚や腕がぬめりの中で藻掻いているもの、転がる頭部、魚の鰭を持ちのたうつ腹などがあり、あらゆる種類の奇形で怪異なものたちが、アブホースの周辺から離れるにつれて大きさを増していった」) — 同上, Wikisource ↩
- [5] “And those that swam not swiftly ashore when they fell into the pool from Abhoth, were devoured by mouths that gaped in the parent bulk.”(訳: 「そしてアブホースの池に落ちた際、素早く岸へ泳ぎ着かなかった者たちは、親なる肉塊に開く口によって貪り喰われた」) — 同上, Wikisource ↩





