概要
企画展「Ars Necronomica 2026: A Call into the Abyss」が、2026年8月7日から29日まで、アメリカ・ロードアイランド州プロヴィデンスのAS220 Aborn Galleryで開催された[1]。NecronomiCon Providenceのプログラムの一つとして位置づけられている。この記事を書いている時点(会期終了翌日)では、すでに会期を終えている。
NecronomiCon Providenceとは
NecronomiCon Providenceは、ラヴクラフトを含む奇想小説(Weird Fiction)の作家たちの生涯と作品を探求する、国際的な会議とフェスティバルである[2]。2013年8月22日から25日にかけて初開催され、以後は隔年で開催されている[2]。開催時期はラヴクラフトの誕生日である8月20日に最も近い週末に合わせられることが多い[2]。開催地のプロヴィデンスは、ラヴクラフトが生まれ、晩年に帰還して代表作の多くを書いた土地であり、原典ゆかりの地そのものをイベント会場に選んでいる点が特徴だ。Ars Necronomicaは、この大きなイベントの中に組み込まれた美術展という位置づけになる。
会場のAS220は、1985年にウンベルト・「バート」・クレンカ、スーザン・クラウセン、スコット・シーボルトの3名が設立した非営利のコミュニティ・アートセンターで、プロヴィデンスのダウンタウンに拠点を置く[3]。約4ダース(48室)のアーティスト用ライブ/ワークスタジオ、複数のギャラリースペース、メインステージ・ブラックボックスシアター、ダンススタジオ、暗室・メディアアーツラボ、青少年向けプログラム「AS220 Youth」、印刷工房などを運営している[3]。プロヴィデンスの芸術シーンを長年支えてきた地元組織が、この展覧会の受け皿になっている。
どんな展覧会か
公式サイトは、この展覧会の趣旨を「define the Weird as an artform of remarkably imaginative visual power(『ウィアード』を、驚くほど想像力に富んだ視覚表現の芸術形式として定義する)」ことだと説明し、「the visual weird in all its dark glory(あらゆる暗い輝きをまとった、視覚化されたウィアード)」を見せる場だとも位置づけている[1]。2026年の展示は「a small, select collection of creative talent, combining the works of both invited artists and artists from within the NecronomiCon team and family – as well as a modest selection of submitted juried pieces(招待作家とNecronomiConチーム・関係者による作品に加え、審査を通過した投稿作品も一部組み合わせた、選りすぐりの創作家たちによる小規模なコレクション)」と説明されており、完全な公募展ではなく招待と審査を組み合わせた選抜制の展覧会であることが分かる。運営側が明記しているのは、「A.I. derived(AIによって生成された)」作品、および人種差別・偏見を含む作品を受け付けないという方針だ[1]。
Guest of Honorに田辺剛氏
2026年の展示でGuest of Honor(特別招待作家)として名を連ねているのが、日本の漫画家・田辺剛氏である[1]。公式サイトのこのページ自体には氏の経歴紹介は無く、招待作家リストに名前が記載されているのみだった[1]。
当サイトは別記事で、田辺氏がラヴクラフト作品を継続的に漫画化してきた「ラヴクラフト傑作集」シリーズを扱っている。「狂気の山脈にて」をはじめ、「魔犬」「異世界の色彩」「アウトサイダー」などの作品を手がけ、「狂気の山脈にて」は第22回手塚治虫文化賞マンガ大賞の最終候補となったほか、フランスのアングレーム国際漫画祭やアメリカのアイズナー賞でも注目された。日本の漫画家がアメリカの本場のラヴクラフト関連イベントでGuest of Honorとして招かれるという事実は、この作品群が国境を越えて評価されてきたことの一つの表れと言える。
当サイトが整理している原典/ダーレス系拡張/TRPG設定という三層に照らせば、田辺氏の仕事は、新しい神格や設定を作り出す拡張の層ではなく、原典そのものを異なる表現媒体へ移し替える、いわば「原典層の再翻訳」にあたる。ストーリーや設定を独自に変えるのではなく、ラヴクラフトが文章で書いた恐怖を、コマ割りと線画という別の言語に置き換える作業だからだ。この点で、後世の作家が新しい神格を追加していく拡張とも、TRPGがルールとして再構成する層とも異なる、第三の関わり方だと言える。
「言葉にできない恐怖」を、絵はどう引き受けるか
当サイトが田辺氏の「狂気の山脈にて」について既に書いた通り、ラヴクラフトの小説の恐怖の多くは「言葉で描写しきれない」という書き手自身の困難として表現される。語り手が「筆舌に尽くしがたい」「人間の言語では言い表せない」と繰り返すことで、読者の想像力に恐怖の輪郭を委ねる書き方である。ところが視覚芸術は、この「描写しきれない」を、あえて具体的な線と色として提示せざるを得ない。田辺氏の漫画が「圧倒的な情報量と余白によって不可知性を損なわない工夫」を重ねているように、Ars Necronomicaに集う画家・彫刻家たちも、同じ問いに向き合っていることになる――言葉が意図的に手放した輪郭を、絵はどこまで、どう引き受けるべきか。
この問いは今に始まったものではない。ラヴクラフトの代表作「クトゥルフの呼び声」が最初に世に出たのは、パルプ雑誌『Weird Tales』第11巻第2号(1928年2月号)だった[4]。同誌は1930年代、マーガレット・ブランデージ、J・アレン・セント・ジョン、ヴァージル・フィンレイ、ハネス・ボックといった画家たちの表紙絵によって、奇怪で幻想的な題材を視覚化する伝統を築いてきた[4]。つまり、「言葉にできない恐怖」をどう絵にするかという課題は、ラヴクラフト作品が初めて誌面に載った1928年当時から、すでに編集者と画家たちが直面してきた問題だったことになる。Ars Necronomicaに集う現代の画家たちは、この約100年続く課題の、最新の担い手だと位置づけられる。
この問いは、当サイトが宇宙的恐怖とは何かで確認したラヴクラフト自身の定義とも関わる。「自然の定まった法則が破られるという示唆」が恐怖の条件であるなら、それを絵として描くことは、示唆を確定した映像に変えてしまう危険と常に隣り合わせだ。視覚芸術としてのウィアードを追求するAS220の展示は、この危険を引き受けたうえで成立している。
関連して読むなら
- 狂気の山脈にて(田辺剛 ラヴクラフト傑作集) — Guest of Honorを務めた田辺剛氏の代表作。「描写しきれない恐怖」を絵にする挑戦について当サイトが扱った記事
- 宇宙的恐怖とは何か — 「自然法則が破られる示唆」という、ラヴクラフト自身が定めた恐怖の条件
出典
- [1] 開催期間「August 7-29, 2026」、会場「AS220’s Aborn Gallery (95 Empire Street, 2nd floor, Providence, RI 02903)」、企画意図「define the Weird as an artform of remarkably imaginative visual power」「the visual weird in all its dark glory」、選定方式「a small, select collection of creative talent, combining the works of both invited artists and artists from within the NecronomiCon team and family – as well as a modest selection of submitted juried pieces」、AI生成作品・差別的表現を含む作品を受け付けない旨、Guest of Honorとして「Gou Tanabe(田辺剛)」の記載がある — NecronomiCon Providence公式サイト「Ars Necronomica 2026」, necronomicon-providence.com ↩
- [2] NecronomiCon Providenceが、文学・学術的な会議とファンフェスティバル、コミュニティの再会が組み合わさった奇想小説(Weird Fiction)の探求であること、第1回が2013年8月22日から25日に開催されたこと、以後奇数年ごとに隔年開催されていること、開催時期がラヴクラフトの誕生日(8月20日)に最も近い週末に設定されていることの記載がある — “NecronomiCon: The Cthulhu Mythos Convention”, hplovecraft.com, hplovecraft.com(2026年9月7日確認) ↩
- [3] AS220が1985年、プロヴィデンス・パフォーミング・アーツ・センター上の一室・予算800ドルで発足した非営利のコミュニティ・アートセンターであり、創設者がウンベルト・「バート」・クレンカ、スーザン・クラウセン、スコット・シーボルトの3名であったことの記載がある — Providence Public Library Special Collections「AS220 Collection」所蔵資料紹介, ppl.libraryhost.com(2026年9月7日確認)。現在、約4ダース(48室)のアーティスト用ライブ/ワークスタジオ、複数のギャラリースペース、メインステージ・ブラックボックスシアター、ダンススタジオ、印刷工房、暗室・メディアアーツラボ、青少年向けプログラム「AS220 Youth」を運営していることは、AS220公式サイト「About AS220」で確認できる — as220.org(2026年9月7日確認)。旧稿にあった「全米芸術基金による評価」という一節は、本記事が参照できた出典の範囲では裏付けが取れなかったため、本文から削った。 ↩
- [4] 「クトゥルフの呼び声」がパルプ雑誌『Weird Tales』第11巻第2号(1928年2月号、159-178, 287ページ)に掲載されたことの記載がある — “Data Page for ‘The Call of Cthulhu'”, hplovecraft.com, hplovecraft.com(2026年9月7日確認)。同誌の表紙画家として、1930年代にマーガレット・ブランデージとJ・アレン・セント・ジョンが、1930年代末にヴァージル・フィンレイとハネス・ボックが活躍したことは、SFE: The Encyclopedia of Science Fiction「Weird Tales」の項目で確認できる — sf-encyclopedia.com(2026年9月7日確認)。旧稿にあった「編集長ファーンズワース・ライトが同作を当初拒否し、後に買い取った」という経緯は、本記事が参照できた出典の範囲では裏付けが取れなかったため、本文から削った。 ↩

