概要
フランスの出版社Bragelonneは、H・P・ラヴクラフト「クトゥルフの呼び声」の挿絵版最新刷『L’Appel de Cthulhu illustré (édition spéciale centenaire)』を2026年9月16日に刊行した[1]。挿絵はフランソワ・バランジェ、翻訳はマキシム・ル・ダンが手がける[1][4]。ハードカバー80ページ、価格35ユーロ、ISBNは979-10-281-2769-5[1]。版元はこの版を「小説『クトゥルフの呼び声』百周年記念版(ÉDITION DU CENTIEME ANNIVERSAIRE DE LA NOUVELLE L’APPEL DE CTHULHU)」と銘打っている[1]。
バランジェが本作を挿絵化するのは今回が初めてではない。2017年に初版、2022年3月2日には挿絵5点を追加した増補版が同じBragelonneから刊行されており、今回の百周年記念版はそのどちらとも異なる第三の版という位置づけになる[3]。以下では、公式ページで確認できた事実を軸に、「百周年」という呼称が指す年、挿絵版としての刊行の系譜、そして挿絵という形式が原典のどこを描いているのかを順に見ていく。
どんな作品か
Bragelonneの商品ページに掲載されているあらすじは次の通りだ。
「Boston, 1926. Suite au décès, dans des circonstances étranges, de son grand-oncle, Francis Thurston découvre dans les documents dont il hérite l’existence d’une secte vouant un culte à une créature innommable, endormie depuis des millions d’années.」(日本語訳:ボストン、1926年。大叔父が奇怪な状況で死去したのち、フランシス・サーストンは、相続した文書の中に、何百万年も前から眠り続ける名状しがたい生物を崇める教団の存在を発見する)[1]
続く説明では、ルイジアナでの生贄の儀式、世界各地で起きた殺人、発狂していく芸術家たち、そして嵐の夜に海から浮上する太古の都市が要素として挙げられている[1]。語り手フランシス・サーストンの名前、大叔父の遺品整理という発端、ルイジアナの摘発、都市の浮上という展開まで、原作小説の筋立てから脚色は加えられていない。挿絵版という形式は、物語そのものを書き換える仕事ではなく、既存の文章に絵を添えて再構成する仕事だと分かる。
「百周年」は、何の百年なのか
版元の惹句が指す「百年」の起点を確かめておきたい。当サイトが「クトゥルフの呼び声」で既に確認した通り、この小説の執筆は1926年夏、初出は1928年2月発行の『ウィアード・テイルズ』誌vol.11 no.2だ[6]。2026年から数えると、執筆年からはちょうど百年、発表年からはまだ二年足りない。
Bragelonneの惹句「ÉDITION DU CENTIEME ANNIVERSAIRE DE LA NOUVELLE L’APPEL DE CTHULHU(小説『クトゥルフの呼び声』百周年記念版)」は、フランス語で「小説」を指す語を使うのみで、執筆年か発表年かを明示していない[1]。ラヴクラフトの伝記的事実に照らせば、この惹句が指せる百年は執筆年の1926年しかない。初出の1928年を百周年として祝うのであれば、刊行はあと二年待つことになる。この版は、まだ来ていない発表百周年ではなく、既に来ている執筆百周年に合わせて刊行が組まれた本だと分かる。
同じ執筆百年という節目は、当サイトが2026年8月に「クトゥルフの呼び声」の記事へ加筆した際にも扱っている。今回の挿絵版は、2026年を記念点として選んだ企画がフランスの出版界にも及んでいる例の一つになる。
挿絵版としての系譜——2017年、2022年、2026年
バランジェによる本作の挿絵版は、今回が初出ではない。Bragelonneの公式カタログを確認すると、複数の版が並んでいる。
2022年3月2日、Bragelonneは挿絵5点を追加した増補版を刊行した。同社の公式ページによれば、ページ数80、価格35ユーロで、「挿絵5点を追加した増補版(ÉDITION AUGMENTEE, COMPRENANT CINQ ILLUSTRATIONS SUPPLEMENTAIRES)」と明記されている[3]。今回の百周年記念版は、この増補版と同じ80ページ・35ユーロという条件で刊行される[1][3]。ページ数と価格が一致することから、百周年記念版は増補版の内容を土台にした版である可能性が高いが、両者の中身が完全に同一かどうかは、実際に手に取って比較しない限り確認できない。
バランジェが本作を挿絵化した最初の版は2017年に遡る。複数の書店サイトでこの初版の存在自体は確認できるが、発売日・ページ数・価格を出版社の公式ページから直接確認することはできなかったため、本稿では詳細を書かない。
バランジェはラヴクラフト作品の挿絵版を、本作以外にも手がけている。Hachetteの商品カタログによれば、『L’abomination de Dunwich illustré(ダンウィッチの怪 挿絵版)』が2022年10月5日、『Les Montagnes hallucinées illustré(狂気の山脈にて 挿絵版)』が2023年10月18日、『L’Ombre sur Innsmouth illustré(インスマスの影 挿絵版)』が2024年10月16日に、いずれもBragelonneから刊行されている[2]。ほぼ毎年10月に1作というペースで、ラヴクラフトの代表的な中短編を挿絵化する仕事を続けてきたことになる。
英語圏にも、バランジェによる本作の挿絵版は存在する。北欧のFree League Publishingは、Design Studio Pressと共同で『The Call of Cthulhu Illustrated by Baranger』を2019年11月1日に刊行したと発表している[5]。64ページのハードカバーで、判型は262×350ミリの大判フォリオだと説明されている[5]。ページ数(64)と判型(262×350ミリ)は、フランス語版の80ページとは一致しない。フランス語版を英訳したものか、独立に構成し直した版なのか、この記事で参照した公式ページの範囲では明記されておらず、断定はできない。
原典との距離(神話の三層のどこに立つか)
本作は、ラヴクラフト自身が1926年に書いた原文をそのまま挿絵化した本であり、当サイトが区分する神話の三層のうち、ラヴクラフト原典の層(1917-1937)に立つ。ダーレス以降の拡張やTRPGが後から付け加えた設定・敵役化・判定システムは、挿絵版という形式には入り込む余地がない。
当サイトが「クトゥルフの呼び声」で確認した通り、原典でクトゥルフは物語の悪役として描かれておらず、目覚めは星辰の周期という人間と無関係な条件で起きる。呪文の英訳「In his house at R’lyeh dead Cthulhu waits dreaming.(ルルイエの館にて、死せるクトゥルフは夢見ながら待つ)」が示す通り、クトゥルフは倒される敵ではなく、待つ者として置かれている[6]。Bragelonneのあらすじが伝える「何百万年も前から眠り続ける」「嵐の夜に海から浮上する」という要素は、この原典の記述と一致する[1]。挿絵版が新たに書き加えた設定は、公式ページで確認できた範囲では見当たらない。
一方で、挿絵という形式そのものは、原典が持たない要素を必然的に加える。ラヴクラフトの原文は、クトゥルフの全身の姿を最後まで直接描写せず、粘土の彫像とヨハンセンの手記を経由してしか語らない[6]。挿絵版がクトゥルフの姿をどこまで、どのように描いているかは、この記事で参照した公式ページのあらすじ・惹句の範囲では分からない。文章が意図的に伏せていたものを、絵という媒体がどこまで可視化するのかは、実際の挿絵を見なければ判断できない論点として残る。
関連して読むなら
- クトゥルフの呼び声 — 本作が挿絵化する原典小説そのもの。1926年執筆/1928年発表という年表と、確認済みの原文引用をまとめている
- クトゥルフ — 本作のあらすじにも登場する、眠りから覚める旧支配者
- ルルイエ — 嵐の夜に浮上する海底都市。あらすじが描く「太古の都市」の正体
- ラヴクラフトの生涯と創作活動 — 1926年夏という執筆時期が、生涯のどの時期にあたるかを確認できる
- クトゥルフ神話 2026年——ゲーム・TRPG・出版・イベントの一年 — 執筆百年という同じ節目に合わせた企画が、他にどれだけあったかを確認できる
出典
- [1] 発売日2026年9月16日、80ページ、価格35ユーロ、ISBN 979-10-281-2769-5、あらすじ「Boston, 1926. Suite au décès, dans des circonstances étranges, de son grand-oncle, Francis Thurston découvre dans les documents dont il hérite l’existence d’une secte vouant un culte à une créature innommable, endormie depuis des millions d’années.」(日本語訳:ボストン、1926年。大叔父が奇怪な状況で死去したのち、フランシス・サーストンは、相続した文書の中に、何百万年も前から眠り続ける名状しがたい生物を崇める教団の存在を発見する)、惹句「ÉDITION DU CENTIEME ANNIVERSAIRE DE LA NOUVELLE L’APPEL DE CTHULHU」の記載がある — Bragelonne公式カタログページ「L’Appel de Cthulhu illustré (édition spéciale centenaire)」、https://www.bragelonne.fr/catalogue/9791028127695-lappel-de-cthulhu-illustre-edition-anniversaire/ ↩
- [2] 著者クレジットがHoward Philips Lovecraft・François Baranger・Maxime le Dainの3名であること、バランジェによるラヴクラフト挿絵版として『L’abomination de Dunwich illustré』(2022年10月5日)、『Les Montagnes hallucinées illustré』(2023年10月18日)、『L’Ombre sur Innsmouth illustré』(2024年10月16日)がいずれもBragelonneから刊行されていることの記載がある — Hachette商品ページ「L’Appel de Cthulhu illustré (édition spéciale centenaire)」、https://www.hachette.fr/livre/lappel-de-cthulhu-illustre-edition-speciale-centenaire-9791028127695/ ↩
- [3] 2022年3月2日刊行、80ページ、価格35ユーロ、「ÉDITION AUGMENTEE, COMPRENANT CINQ ILLUSTRATIONS SUPPLEMENTAIRES(挿絵5点を追加した増補版)」との記載がある — Bragelonne公式カタログページ「L’Appel de Cthulhu illustré (édition augmentée)」、https://www.bragelonne.fr/catalogue/9791028117849-lappel-de-cthulhu-illustre-edition-augmentee/ ↩
- [4] マキシム・ル・ダンの肩書が「Auteur, Traducteur(著者・翻訳者)」であり、翻訳実績の一覧に「L’Appel de Cthulhu」が含まれるとの記載がある — Bragelonne著者ページ「Maxime Le Dain」、https://www.bragelonne.fr/auteurs/maxime-le-dain/ ↩
- [5] 2019年11月1日発売、64ページのハードカバー、判型262×350ミリのフォリオ判、Free League PublishingとDesign Studio Pressの共同刊行との記載がある — Free League Publishingプレスリリース「The Call of Cthulhu Illustrated by Baranger Released Today」、https://www.mynewsdesk.com/us/free-league/pressreleases/the-call-of-cthulhu-illustrated-by-baranger-released-today-2938630 ↩
- [6] 「クトゥルフの呼び声」の執筆が1926年夏、初出が『ウィアード・テイルズ』誌vol.11 no.2(1928年2月号)であること、呪文の英訳「In his house at R’lyeh dead Cthulhu waits dreaming.」の記載があることは、当サイト「クトゥルフの呼び声」記事で既に確認済み。原典一次資料はThe H. P. Lovecraft Archive、https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cc.aspx ↩


