概要
『狂気の山脈にて ラヴクラフト傑作集』は、漫画家・田辺剛がH・P・ラヴクラフトの長編「狂気の山脈にて(At the Mountains of Madness)」を漫画化した作品である。版元はKADOKAWA(ビームコミックスレーベル)で、全4巻[1][2][3][4]。第1巻は2016年10月24日、以降ほぼ半年おきに刊行が進み、第4巻は2017年12月11日に発売された[1][2][3][4]。
田辺剛は本作以前から「魔犬」「アウトサイダー」など、ラヴクラフト作品のコミカライズを「ラヴクラフト傑作集」シリーズとして継続的に手がけており、本作はそのなかでも最大の分量を持つ中核作にあたる。KADOKAWA公式の第1巻紹介文は、本作を「ホラー小説の巨星ラヴクラフトの代表作をコミカライズ」した「『コスミック・ホラー』の全てが詰まった作品」と位置づけ、第1巻は第21回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で審査委員会推薦作品に選出されている[1]。
書誌情報(全4巻)
KADOKAWA公式商品ページの記載による[1][2][3][4]。
| 巻 | 発売日 | ISBN | 判型・ページ数 | 価格(税込) |
|---|---|---|---|---|
| 第1巻 | 2016年10月24日 | 978-4-04-728316-9 | B6判・164ページ | 748円 |
| 第2巻 | 2017年1月25日 | 978-4-04-734440-2 | B6判・152ページ | 792円 |
| 第3巻 | 2017年7月24日 | 978-4-04-734730-4 | B6判・168ページ | 902円 |
| 第4巻 | 2017年12月11日 | 978-4-04-734934-6 | B6判・176ページ | 924円 |
刊行元はいずれもKADOKAWA、レーベルはビームコミックス[1][2][3][4]。4巻を通じたページ数は660ページに達し、田辺剛のラヴクラフト・コミカライズのなかでも長編にあたる。
クトゥルフ神話との関係
原作「狂気の山脈にて」は、ミスカトニック大学の南極探検隊が、太古に地球へ飛来した異星種族「古のもの」の遺した巨大都市と、彼らが創造した奉仕種族「ショゴス」に遭遇する物語である。本作は原作の設定・展開をほぼ忠実に漫画化しており、人類が誕生する遥か以前から地球に存在した知性、そして人間の歴史観を根底から覆す発見という、ラヴクラフト宇宙的恐怖の骨格をそのまま継承している。ネクロノミコンや旧支配者への言及も原典どおりに織り込まれ、神話体系との接続が保たれている。
田辺剛の作風と翻案の方法
小説の恐怖の多くは「言葉で描写しきれない」という語り手の困難として表現される。ラヴクラフトの原文は、探検隊が目にしたものを直接描写せず、その異様さに絶句する語り手の反応を積み重ねることで恐怖を成立させる文体を取っている。田辺剛はこれをあえて具体的な絵として提示する挑戦を行った。緻密で重厚な描線による南極の氷壁や、古のものの都市のレリーフ、ショゴスの質感は、読者に直接的なイメージを与えつつも、コマ運びと余白の使い方によって不可知性を損なわない工夫がなされている。
大判の見開きを多用して南極という舞台の物理的なスケールを提示する一方、生物やレリーフのディテールはあえて画面の隅や暗部に沈める配置が目立つ。これは、原作が「見てしまった以上、語らざるを得ない」という探検隊の報告書形式を取っていることに対応する構図であり、絵として提示しながらも一望では把握しきれない情報量を保つことで、小説の持つ「理解の遅延」を漫画の画面設計に置き換えている。
原作との違い・原作の側の事情
原作「At the Mountains of Madness」は、ラヴクラフトが1931年に執筆した中編である。SF Encyclopediaのラヴクラフト項によれば、この作品は1936年2月号の雑誌『アスタウンディング・ストーリーズ』に短縮版として掲載され、全文が読めるようになったのはラヴクラフトの死後、1939年のアーカム・ハウス版作品集『The Outsider and Others』からである[8]。同項は本作を「The Shadow Out of Time」と並べて、”perhaps the most accomplished, and most influential on later sf writers”(のちのSF作家に対しておそらく最も完成度が高く、最も影響力の大きい作品)と位置づけている[8]。
漫画版は、この長い中編小説をほぼ忠実に4巻へ再構成している点が特徴で、エピソードの大胆な省略や後日談の追加といった翻案は行っていない。原作の探検隊の報告書という体裁、地質学者ダイアー教授による一人称的な視点、そして最後まで断定を避ける語り口は漫画版にも引き継がれている。原作の続きの時間を舞台にしたゲーム版『Conarium』のような「後日談」ではなく、原作そのものの映像化にあたる点が、同じ「狂気の山脈にて」を題材にした他媒体の作品との大きな違いである。
受賞歴・海外での評価
本作は国内外で複数の賞に候補・選出されている。いずれも版元・主催団体・報道の一次情報にもとづく。
- 第21回文化庁メディア芸術祭: 第1巻がマンガ部門の審査委員会推薦作品に選出された(KADOKAWA公式商品ページの記載)[1]。
- 第22回手塚治虫文化賞マンガ大賞: 2018年2月26日発表の最終候補10作品のひとつに選ばれた。朝日新聞社主催、8人の社外選考委員による投票と書店員・マンガ関係者の推薦で選出されたもので、同回の候補にはのちに大賞を受賞する「ゴールデンカムイ」なども名を連ねている[5]。Anime News Networkの報道も、同じく「2018年2月に第22回手塚治虫文化賞にノミネートされた」という事実を独立に伝えている[6]。
- 第46回アングレーム国際漫画祭(2019年1月開催): 最高賞にあたるBest Comic(フォーヴ・ドール)部門にノミネートされた[6]。
- Prix Asie de la Critique ACBD 2019: フランスの漫画批評家・記者協会(ACBD)が主催する賞で、2018年7月から2019年6月の間にフランスで出版されたアジア産コミックを対象とする。2019年7月のJapan Expo会期中に授与が発表され、本作が受賞した[6]。
- 第47回アングレーム国際漫画祭(2020年1月開催): Best Comic部門に2年連続でノミネートされた[7]。
またDark Horse Comicsが英語版『H.P. Lovecraft’s At The Mountains Of Madness』を刊行しており、英語圏でも読める体制が整っている[6]。
読みどころ・どんな人に向くか
- 原作の文体が持つ「言葉にしきれない恐怖」を、絵という別の手段でどう再現しようとしたかという田辺剛の設計そのものが読みどころになる。南極の氷壁と古のものの都市を描いた大判の見開きは、原作を読んだあとに見比べると翻案の姿勢がよく分かる。
- 原作小説をまだ読んでいない場合でも、ほぼ忠実な翻案であるため、漫画から先に読んでもクトゥルフ神話の骨格(古のもの・ショゴス・旧支配者・宇宙的恐怖)を把握できる。
- 同じ題材の後日談を扱うゲーム版『Conarium』を遊ぶ前後に読むと、「原作そのものの翻案」と「原作の後を舞台にした二次創作的な作品」の違いが分かりやすい。
- 全4巻・660ページというボリュームは、短編中心の他のラヴクラフト傑作集(「魔犬」「アウトサイダー」など)と比べて読み通す時間がかかる。長編一本にじっくり向き合いたい読者向けの巻数構成である。
関連記事
- 『狂気の山脈にて』 — 本作が漫画化した原作小説
- 『Conarium』 — 同じ原作の「後」を舞台にしたゲーム版
- 古のもの / ショゴス — 原作・本作が描いた存在
出典
- [1] KADOKAWA公式商品ページ「狂気の山脈にて 1 ラヴクラフト傑作集」(https://www.kadokawa.co.jp/product/321607000136/)。著者田辺剛、発売日2016年10月24日、ISBN 978-4-04-728316-9、B6判・164ページ、価格748円(本体680円+税)、第21回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品との記載を確認した(2026-09-19確認)。 ↩
- [2] KADOKAWA公式商品ページ「狂気の山脈にて 2 ラヴクラフト傑作集」(https://www.kadokawa.co.jp/product/321610000160/)。発売日2017年1月25日、ISBN 978-4-04-734440-2、B6判・152ページ、価格792円(本体720円+税)(2026-09-19確認)。 ↩
- [3] KADOKAWA公式商品ページ「狂気の山脈にて 3 ラヴクラフト傑作集」(https://www.kadokawa.co.jp/product/321704000531/)。発売日2017年7月24日、ISBN 978-4-04-734730-4、B6判・168ページ、価格902円(本体820円+税)(2026-09-19確認)。 ↩
- [4] KADOKAWA公式商品ページ「狂気の山脈にて 4 ラヴクラフト傑作集」(https://www.kadokawa.co.jp/product/321709000536/)。発売日2017年12月11日、ISBN 978-4-04-734934-6、B6判・176ページ、価格924円(本体840円+税)(2026-09-19確認)。 ↩
- [5] コミックナタリー「第22回手塚治虫文化賞、マンガ大賞最終候補の10作品が出揃う」(2018年2月26日、https://natalie.mu/comic/news/271062)。朝日新聞社主催、8人の社外選考委員による投票と書店員・マンガ関係者の推薦で最終候補10作品が選出され、田辺剛「狂気の山脈にて」が含まれることを確認した(2026-09-19確認)。 ↩
- [6] Anime News Network「Gou Tanabe’s H.P. Lovecraft’s At the Mountains of Madness Manga Wins ACBD Award in France」(2019年7月8日、https://www.animenewsnetwork.com/news/2019-07-08/gou-tanabe-h.p-lovecraft-at-the-mountains-of-madness-manga-wins-acbd-award-in-france/.148802)。ACBD(Association des Critiques et des journalistes de Bande Dessinée)によるPrix Asie de la Critique ACBD 2019の受賞、第46回アングレーム国際漫画祭Best Comic部門へのノミネート、第22回手塚治虫文化賞への2018年2月のノミネート、KADOKAWAによる2016年10月-2017年12月の全4巻刊行、Dark Horseによる英語版刊行の各事実を確認した(2026-09-19確認)。 ↩
- [7] Anime News Network「At the Mountains of Madness, Ship of Theseus Manga Nominated for Angoulême’s Top Prize」(2019年11月29日、https://www.animenewsnetwork.com/news/2019-11-29/at-the-mountains-of-madness-ship-of-theseus-manga-nominated-for-angouleme-top-prize/.153798)。第47回アングレーム国際漫画祭のBest Comic部門ノミネートに本作(田辺剛「Les Chefs-D’œuvre de Lovecraft」、記事内でKūki no Sanmyaku ni te = At The Mountains Of Madnessと注記)が含まれ、前年の第46回でも同部門にノミネートされていたことを確認した(2026-09-19確認)。 ↩
- [8] SF Encyclopedia「Lovecraft, H P」(https://sf-encyclopedia.com/entry/lovecraft_h_p)。「At the Mountains of Madness」の書誌「cut February 1936 Astounding ; restored in The Outsider and Others coll 1939 ; 1990 chap」、および同作と「The Shadow Out of Time」を”perhaps the most accomplished, and most influential on later sf writers”と位置づける記述を確認した(2026-09-19確認)。 ↩


