編集部注: この語り手は、ゲームや二次創作の一部で「ロバート・オルムステッド」の名で呼ばれることがあるが、この名前はラヴクラフトの原文には一度も登場しない。原作「インスマスの影」において、語り手は最後まで本名を明かされないまま物語を綴る。本記事では原文に忠実に「無名の語り手」として扱う。
概要
21歳の誕生日を機に、母方の系図調査と観光を兼ねてニューイングランド各地を旅していた青年。旅程の途中、地元民から忌避される寂れた港町インスマスに立ち寄ったことをきっかけに、自らの血筋に隠された恐るべき真実へと直面していく「インスマスの影」の語り手である。
基本プロフィール
- 分類: 人物(一人称の語り手)
- 欧文表記: 原文中に本名の明記なし(ゲーム・二次創作の「ロバート・オルムステッド」は非公式の後付け名称)
- 初出・出典: 「インスマスの影」(1931年執筆、1936年に私家版として発行)
- 旅の目的: 21歳の成人を記念した、ニューイングランド各地の観光・古物趣味・系図調査を兼ねた旅[1]
原典での描写
冒頭の告白と語り手の立場
物語は、1927年から28年の冬にかけて連邦政府がインスマスで秘密裏に行った捜索と、その後の家屋の焼却・爆破という異例の措置を、事件の外側から説明する場面で幕を開ける。続く段落で語り手は一人称に転じ、1927年7月16日早朝にインスマスから逃げ出し、政府による捜査と対応を求める必死の訴えを行ったのが自分自身であったと明かす。「1927年7月16日の早朝、インスマスから死に物狂いで逃げ出したのは私であり、政府の調査と対応を求める私の怯えきった訴えが、世に伝えられたあの一連の出来事全体を引き起こしたのだった」というのが、語り手自身の言葉である[3]。冒頭で外側から語られていた事件の当事者が誰であったかは、この告白によって初めて示される。
旅の動機と年齢・出自
21歳の成人を機とした旅程は、当初ニューベリーポートから直接アーカムへ向かう計画で組まれていた。「古都ニューベリーポートから直接アーカムへ向かうつもりだった。母方の家系はそこに由来していたのである」と語り手は述べており[4]、母方の血筋とアーカムという土地が、インスマス訪問より前から結びついていたことになる。
逃走と政府への通報
深きものどもの群れに追われロウリー街道の茂みに身を潜めていたときのことについて、語り手はその後の顛末が現実だったのか幻覚だったのか、最後まで判別できないと繰り返し記している。「その後に起きたことが忌まわしい現実だったのか、それとも悪夢のような幻覚に過ぎなかったのか、私は今もなお言い切る気になれない。私の必死の訴えを受けたその後の政府の対応は、それを恐るべき真実として裏付ける方向に働いた」[5]。
夜明けの雨の中で我に返った語り手は、なんとか歩ける状態まで回復し、ロウリーの村まで歩き通して身なりを整え、夜行列車でアーカムへ向かった。「私は夜行列車でアーカムへ向かい、翌日そこで政府当局者と長く真剣に話し合った。同じことを、のちにボストンでも繰り返した」というこの通報こそが、冒頭で語られた連邦政府による捜索・家屋の焼却の発端である[6]。
家系の発見と結末の決意
脱出後の帰路、語り手はアーカムの歴史協会で系図資料の収集を行い、母方の祖母イライザ・オーンの家系をたどるなかで、曾祖母が出自不明のマーシュ家の娘とされていたことを知らされる。「その名が自分自身の家系図に連なっていると知らされてもうれしくはなかったし、ピーボディ氏に、私自身も本物のマーシュの目をしていると言われたことも、愉快ではなかった」というのが、このときの語り手の反応であった。故郷トリードへ戻った語り手はその秋にオーバリン大学の最終学年へ進み、翌年の夏にはクリーブランドの母方一族のもとを訪ね、写真や書簡をもとに調査を続けた[7]。
調査のさなか、語り手は祖母と自死した伯父ダグラスの顔つきに次第に嫌悪を覚えるようになる。ある夜、海中の祖母と再会する夢を見た語り手は、「彼女は変わっていた——水へ入っていく者たちがそうなるように——そして自分は一度も死んだことがないと私に告げた」という言葉とともに、永遠の生がイハ=ンスレイで待っていることを聞かされる[8]。
目覚めた朝、鏡は語り手に「インスマスの顔つき」が現れ始めたことを告げる。「途方もない、聞いたこともない栄光が、この下で私を待っている。私はまもなくそれを求めに行くだろう」と語り手は綴り、自ら命を絶つことはしないと誓ったうえで、カントンの療養所にいる従兄を連れ出し、共にイハ=ンスレイへ向かう決意を固める[9]。
別名・呼称
原文中では最後まで本名が明かされない。TRPGやコンピュータゲーム、ファン創作などの二次的な文脈では「ロバート・オルムステッド」の名で呼ばれることがあるが、この名称はラヴクラフトの原作には一切登場しない後付けの通称であり、本サイトでは原文に忠実に「無名の語り手」として扱う。
人物像・性格
旅程を切符売り場の係員に説明する場面で、自らの旅を「成人を記念した、観光・古物趣味・系図調査を兼ねたニューイングランド巡り」と語る、好奇心旺盛で理性的な青年として描かれる[1]。物語後半にかけて、恐怖と忌避の対象であった血筋を最終的に受け入れていく心理的変化が、この人物の最大の特徴である。
生涯・経歴
語り手は、インスマスで出会った老人ゼイドック・アレンから、深きものどもとインスマス住民との間に結ばれた忌まわしい盟約の由来を聞かされる。その後、町からの脱出行の途上で深きものどもに追い詰められながらも、命からがら町を脱する。
脱出後の調査で、語り手は自らがインスマスの血を引く一族の子孫であることを知り、次第に自らの肉体に「インスマスの顔つき」の兆候——後年多くの派生作品で繰り返し参照される、両生類的な特徴への漸進的変容——が表れ始めていることに気づいていく。
物語の結末で、語り手は当初深きものどもへの恐怖と嫌悪を抱いていたにもかかわらず、自らの変容を受け入れ、海底都市イハ=ンスレイで永遠の生を得た同族のもとへ向かう決意を固める。物語の最後の一文は、彼が海の底で待つ栄光に満ちた生を思い描く場面で締めくくられる[2]。
他の人物・存在との関係
ゼイドック・アレンは、インスマスの秘密——深きものどもとの盟約の由来——を語り手に明かす老人である。深きものどもは、語り手自身の血筋の起源であり、当初は恐怖の対象、最終的には受け入れの対象となる存在。デビル・リーフとイハ=ンスレイは、深きものどもの棲息地・都市として物語の結末に直結する場所である。
主要登場作と読みどころ
- 「インスマスの影」(1931年執筆/1936年私家版発行): 語り手が唯一登場する中編。旅行記のような穏やかな導入から、町の秘密の発覚、決死の脱出行、そして自らの血筋の受容へと至る展開の落差が最大の読みどころ。特に結末部は、恐怖の対象であったはずの「異形の血」を語り手自身が最終的に受け入れるという、ラヴクラフト作品の中でも異色の帰結を迎える。
よくある誤解
Q. この語り手は「ロバート・オルムステッド」という名前ではないのですか?A. いいえ。この名前はラヴクラフトの原文には一度も登場せず、TRPGやゲームなど後年の派生作品が便宜的に付けた非公式の通称です。原作はあくまで「無名の語り手」として一人称で語られます。
Q. 語り手は最後、深きものどもから逃げ延びてハッピーエンドを迎えるのですか?A. 単純なハッピーエンドとは言えません。語り手は物理的な脱出には成功しますが、最終的には自らの意志で深きものどもの血を受け入れ、海底での永遠の生を選び取ります。これは恐怖からの解放ではなく、恐怖の対象そのものへの同化として描かれており、批評的にもしばしば議論の対象となる結末です[2]。
出典
- [1] “I was celebrating my coming of age by a tour of New England—sightseeing, antiquarian, and genealogical”(訳: 「私は成人を、ニューイングランド巡りによって祝っていた——観光、古物趣味、そして系図調査を兼ねた旅として」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(1931年執筆/1936年私家版発行), 公式アーカイブ ↩
- [2] “We shall swim out to that brooding reef in the sea and dive down through black abysses to Cyclopean and many-columned Y’ha-nthlei, and in that lair of the Deep Ones we shall dwell amidst wonder and glory forever.”(訳: 「我らは海に浮かぶあの物思わしげな岩礁へと泳ぎ出し、暗黒の深淵を潜り抜けて、キュクロプス的な、無数の柱を持つイハ=ンスレイへと至るだろう。そして深きものどもの棲むその巣にて、我らは永遠に驚異と栄光のうちに住まうだろう」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] “It was I who fled frantically out of Innsmouth in the early morning hours of July 16, 1927, and whose frightened appeals for government inquiry and action brought on the whole reported episode.”(訳: 「1927年7月16日の早朝、インスマスから死に物狂いで逃げ出したのは私であり、政府の調査と対応を求める私の怯えきった訴えが、世に伝えられたあの一連の出来事全体を引き起こしたのだった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [4] “…had planned to go directly from ancient Newburyport to Arkham, whence my mother’s family was derived.”(訳: 「古都ニューベリーポートから直接アーカムへ向かうつもりだった。母方の家系はそこに由来していたのである」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [5] “I am not even yet willing to say whether what followed was a hideous actuality or only a nightmare hallucination. The later action of the government, after my frantic appeals, would tend to confirm it as a monstrous truth.”(訳: 「その後に起きたことが忌まわしい現実だったのか、それとも悪夢のような幻覚に過ぎなかったのか、私は今もなお言い切る気になれない。私の必死の訴えを受けたその後の政府の対応は、それを恐るべき真実として裏付ける方向に働いた」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [6] “I caught the night train to Arkham, and the next day talked long and earnestly with government officials there; a process I later repeated in Boston.”(訳: 「私は夜行列車でアーカムへ向かい、翌日そこで政府当局者と長く真剣に話し合った。同じことを、のちにボストンでも繰り返した」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [7] “I did not welcome the news that it belonged on my own ancestral tree; nor was I pleased by Mr. Peabody’s suggestion that I had the true Marsh eyes myself.”(訳: 「その名が自分自身の家系図に連なっていると知らされてもうれしくはなかったし、ピーボディ氏に、私自身も本物のマーシュの目をしていると言われたことも、愉快ではなかった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [8] “She had changed—as those who take to the water change—and told me she had never died.”(訳: 「彼女は変わっていた——水へ入っていく者たちがそうなるように——そして自分は一度も死んだことがないと私に告げた」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [9] “Stupendous and unheard-of splendours await me below, and I shall seek them soon.”(訳: 「途方もない、聞いたこともない栄光が、この下で私を待っている。私はまもなくそれを求めに行くだろう」) — 同上, 公式アーカイブ ↩




