概要
グラフィックノベル『The Last Day of H.P. Lovecraft』の英語版単行本が、2026年8月18日にBOOM! Studiosより発売された[1]。原作はRomuald Giulivo、作画はJakub Rebelka、英訳はMercedes Gilliomが担当し、全144ページで既刊全5号(#1-5)を1冊にまとめた完全版になっている[1]。もともとはフランス語で発表されたグラフィックノベルで、今回が初の英訳だ。原書『Le dernier jour de Howard Phillips Lovecraft』は、フランスの404 Comicsより2023年10月26日に刊行された(152ページ、26.95ユーロ)[3]。今回の英語版は、この原書の刊行から約3年を経ての翻訳になる。
どんな作品か
公式のあらすじは次の通り。「A gothic meditation on legacy and mortality from the world of Lovecraftian horror. Translated for the first time from the acclaimed French graphic novel, this imaginative blend of fiction and reality reimagines the final hours of the literary icon through a haunting, dreamlike lens.(ラヴクラフト的ホラーの世界から生まれた、遺産と死をめぐるゴシック的省察。高い評価を得たフランス語版グラフィックノベルの初の英訳であり、この虚構と現実を織り交ぜた作品は、この文学的アイコンの最期の時間を、忘れがたく夢のようなレンズを通して再構想する)」[1]。史実の伝記を再現するのではなく、最期の時間に彼自身の創作世界・記憶・後悔が入り混じって押し寄せてくる、幻想的な物語として構成されていることが分かる。
史実:最期の一日は、どんな一日だったか
当サイトの「ラヴクラフトの生涯と創作活動」によれば、ラヴクラフトは1937年3月10日、腸癌のためジェーン・ブラウン・メモリアル記念病院に入院し、同年3月15日、46歳で病院にて死去した。ラヴクラフト公式アーカイブの伝記は、腸の癌がその時点ですでに手の施しようのないところまで進行していたこと、1936年から37年にかけての冬を病状の悪化する痛みに耐えながら過ごしたこと、そして3月18日にスワン・ポイント墓地のフィリップス家墓所へ埋葬されたことを伝えている[2]。医者を忌避し死の1ヶ月前まで受診しなかったという説や、病床で日記を書き続けたという説は、この公式記録の範囲では確認できない。
つまり史実の最期は、進行した腸の癌を抱えて入院し、5日後に息を引き取るという、簡潔な臨床の記録として残っている。フィクションが描く「彼自身の創作物に取り囲まれる最期」という着想を、史実の記録から直接裏づけることはできない。
フィクションが描く最期——語り手はランドルフ・カーター
『The Last Day of H.P. Lovecraft』が描くのは、この史実の骨格の上に、彼自身が生涯かけて書いてきた怪物・都市・宇宙的恐怖のイメージが、最期の意識に流れ込んでくるという幻想だ。原書刊行時のフランスの書評サイトComixtripによれば、物語は1937年3月10日、ラヴクラフトが小腸癌の末期診断を受けてプロヴィデンスで入院したその日を舞台にしている[3]。そしてその病床に、ある人物が訪れる。「ある一人のランドルフ・カーターが彼の病床を訪れる。この最期の一日を私たちに語るのは彼だ」[3]。
この配役は偶然ではない。同記事はこう続けている。「ランドルフ・カーターはラヴクラフトの再登場人物であり、彼の真の分身とさえ見なされている」[3]。当サイトが別記事で確認した通り、ランドルフ・カーターは「ランドルフ・カーターの陳述」「銀の鍵」「銀の鍵の門を越えて」「未知なるカダスを夢に求めて」の4作に連続して登場する、ラヴクラフト作品世界で最も重要な再登場人物だ。作者自身の分身とも評されるこの人物に、作者本人の臨終を語らせるという構成そのものが、本作の核心にある仕掛けだと言える。
物語はさらに、モルヒネによる譫妄状態を通じて、ラヴクラフトが自ら生み出した登場人物たちや、実生活・文学上の重要な人物たちと「決着をつける」場面を描くとされている[3]。史実の伝記としての正確さを目指す作品ではなく、生涯を通じて「言葉にできない恐怖」を書き続けた作家が、最期の瞬間に自分自身の創造物と対峙するとしたら、という仮定に基づくフィクションである。
三つのラヴクラフト像のどこに位置するか
当サイトは別記事「ラヴクラフトは自分をどう名乗ったか」で、ラヴクラフト像を「本人が書いた自己像」「同時代の証言」「後世の伝記」「大衆化した像」という4つの層に分けて記録することの重要性を確認した。同記事は2026年に刊行されたグラフィック伝記『Some Notes on a Nonentity: The Life of H. P. Lovecraft』(Sam Gafford・Jason C. Eckhardt)を、幼少期から代表作を書いた時期までを描く③後世の伝記の最新形として位置づけている。
『The Last Day of H.P. Lovecraft』は、これとは異なる位置に立つ。同じ2026年に登場したもう一つのグラフィックノベルでありながら、『Some Notes on a Nonentity』が生涯全体を史実に基づいて描こうとするのに対し、本作は最期の時間だけを切り取り、そこにフィクションとしての解釈を積極的に持ち込んでいる。当サイトの分類で言えば、③後世の伝記というより、③と④(大衆化した像)の境界に立つ作品――史実の骨格(腸癌、入院、痛み)を保持しながら、そこに彼自身の創作物という象徴的なイメージを重ねる、伝記でも純然たる創作でもない中間的な作品だと言える。
フランス語圏からの初翻訳という背景
本作がもともとフランス語で発表された作品だという点も記録しておきたい。ラヴクラフトはフランスでも長く読まれ、論じられてきた作家であり、本作はそうしたフランス語圏のラヴクラフト受容が生んだ創作の一つが、2026年になって英語圏へ届いた例にあたる。当サイトが扱ってきた作品の多くが英語圏発のものである中、フランス語からの翻訳という経路は、ラヴクラフト受容の広がりが英語圏に閉じていないことを示す一例になっている。
関連して読むなら
- ラヴクラフトは自分をどう名乗ったか — 本人の自己像・同時代の証言・後世の伝記・大衆化した像という4層でラヴクラフト像を整理した記事。2026年のもう一つのグラフィック伝記『Some Notes on a Nonentity』を扱う
- ラヴクラフトの生涯と創作活動 — 史実の年表で、最期に至るまでの経緯を確認できる
- ランドルフ・カーター — 本作の語り手を務める、ラヴクラフト作品世界で最も重要な再登場人物
出典
- [1] 原作Romuald Giulivo、作画Jakub Rebelka、英訳Mercedes Gilliom、発売日2026年8月18日、144ページ、既刊5号(#1-5)を収録した完全版であること、フランス語版グラフィックノベルの初英訳であること、あらすじ「A gothic meditation on legacy and mortality from the world of Lovecraftian horror. Translated for the first time from the acclaimed French graphic novel, this imaginative blend of fiction and reality reimagines the final hours of the literary icon through a haunting, dreamlike lens.」の記載がある — Penguin Random House(BOOM! Studios商品ページ), penguinrandomhouse.com ↩
- [2] 腸の癌がすでに手の施しようのないところまで進行していたこと、1936-37年の冬を病状の悪化する痛みに耐えながら過ごしたこと、1937年3月10日にジェーン・ブラウン・メモリアル病院へ入院し5日後の3月15日に死去したこと、3月18日にスワン・ポイント墓地のフィリップス家墓所に埋葬されたことが記載されている。医者を忌避し死の1ヶ月前まで受診しなかったという説、病床で日記を書き続けたという説、「constant pain」という原文表現については、この公式伝記ページに記載がなく、当サイトでは裏づけを確認できていない — “Howard Phillips Lovecraft: The Life of a Gentleman of Providence”, H. P. Lovecraft Official Archive(hplovecraft.com), hplovecraft.com ↩
- [3] 原書『Le dernier jour de Howard Phillips Lovecraft』が404 Comicsより2023年10月26日に刊行(152ページ、26.95ユーロ)されたこと、物語が1937年3月10日のラヴクラフト入院の日を舞台にしていること、「Un certain Randolph Carter s’est alors rendu à son chevet. C’est lui qui nous raconte ce dernier jour」(ある一人のランドルフ・カーターが彼の病床を訪れる。この最期の一日を語るのは彼だ)という記載、「Randolph Carter est un personnage récurrent de Lovecraft. Il est même considéré comme son véritable alter-ego」(ランドルフ・カーターはラヴクラフトの再登場人物であり、彼の真の分身とさえ見なされている)という記載、モルヒネによる譫妄状態を通じて登場人物や実在の人物と「決着をつける」という内容の記載がある — Comixtrip「Le dernier jour de Howard Phillips Lovecraft」, comixtrip.fr ↩