概要
イブは、ラヴクラフト「サルナスの滅亡」に登場する、ムナールの地の湖畔にあった太古の灰色石造都市である。湖そのものと同じくらい古く、後にこの地へ現れる都市サルナスの建国以前から存在していた[1]。住人は緑色の肌と声を持たない異形の姿で、水蜥蜴神ボクルグを崇めていたが、やがてサルナスの若い戦士たちによって滅ぼされ、持ち帰られたボクルグの偶像がサルナス自体の滅亡を招く伏線となる。
原典での描写
「サルナスに到りし禍」(1919年12月3日執筆)――灰色の石の都市と住人の姿
物語は、イブの住人を奇妙で醜いと評し、それは彼らが属する世界がまだ定まらず粗く形づくられたばかりだったためだと語る[9]。
この太古の存在についてあまり多くが書き残されていないのは、彼らが極めて古い時代に生きており、人類はまだ若く、そうした太古の生き物についてほとんど知らないからだとされる[10]。
イブの住人とその彫刻が人類の到来までなぜそれほど長く世に留まっていたのかは誰にも分からず、ムナールの地が現とも夢とも隔たった静かな土地だったからかもしれないと、物語は推測を添えている[11]。
「サルナスに到りし禍」――サルナスの民の憎悪と虐殺
ある日、投石兵・槍兵・弓兵からなる若き戦士たちがイブへ進軍し、住人をことごとく殺した。奇怪な亡骸に触れることを厭い、長槍で押しやるようにして湖へ沈めたという[12]。
イブの灰色の彫像を刻んだ巨石も忌避され、同じく湖へ投げ込まれた。これほど重い石をどこから運んできたのか、戦士たちはその労力の大きさに驚いたともいう。ムナールの地にもその周辺にも似た石は無かったからである[13]。
「サルナスに到りし禍」――イブ滅亡の祭り
サルナスの緑色の石の海壁は、毎年開かれる「イブ滅亡の祭り」の折に不思議と高まる波を防いでいたという[14]。
この祭りでは、太古の異形の者たちを滅ぼした先人の霊に盛大な栄誉が捧げられ、彼らとその古き神々の記憶は、ゾッカルの庭の薔薇を冠した踊り手や楽人たちに嘲笑されたと記される[15]。
他作品での言及
「狂気の山脈にて」(1931年2月~3月22日執筆)では、南極の太古都市を目にした語り手の想像の中で、人類以前の忌まわしい大都市の一つとして、ムナールの地のイブの名がヴァルーシアやルルイエと並び一度だけ挙げられる[16]。
「名もなき都市」(1921年1月執筆)では、語り手が太古の廃墟の壮大さに思いを馳せる場面で、人類が存在する以前に灰色の石で刻まれていたというイブの名が、サルナスと並んで一度だけ言及されるにとどまる[17]。
基本プロフィール
- 分類: 地名(太古の石造都市)
- 欧文表記: IB
- 初出・出典: 「サルナスの滅亡」(1919年執筆/1920年発表)
- 地理設定: ムナールの地、大いなる湖の畔(サルナス建国以前から存在)
由来・モデル
イブは夢の国(あるいは太古の伝説的過去)に属する都市とされ、現実の地球地理上の特定地点との対応関係は原典に明記されていない。作中の伝承(カダセロンの粘土円柱に書かれているとされる記述)によれば、イブの住人とその都市・湖そのものは、ある夜、霧とともに月から降りてきたと語られている[3]。この「月からの飛来」自体が原典内で語られる由来譚であり、現実世界のモデルを示すものではない。
歴史・年表
物語で語られる年表は以下の通り。
- サルナス建国以前: 湖畔にはイブという灰色石造の都市があり、湖そのものと同じくらい古かった[1]。住人はカダセロンの粘土円柱の記述によれば、湖や霧と同じ緑色の肌、突き出た目、たるんだ唇、奇妙な耳を持ち、声を持たなかったとされる[2]。彼らは大蜥蜴神ボクルグを象った海緑色の石像を崇拝し、月が凸月のときにその前で踊っていた[4]。
- サルナス建国: ムナールへ流れ着いた放浪の民がイブの近くにサルナスの最初の礎を築いた。彼らはイブの住人の姿を見て大いに驚異したが、その驚異には憎悪が入り混じっていたという[5]。
- イブの滅亡: サルナスの若い戦士たちがイブを滅ぼし尽くし、ボクルグを象った海緑色の石像だけを征服の証として持ち帰った[6]。
- 偶像を巡る怪異: 像が神殿に安置された翌夜、湖上に怪光が目撃され、翌朝には像が消え失せていた。大神官タラン=イシュは名状しがたい恐怖に見舞われたかのように死んでおり、死の直前、祭壇に「破滅(DOOM)」の印を震える手で刻んでいた[7]。
- その後: 消失した像は後に葦の中に半ば埋もれた状態で発見され、イラルネクの高位神殿に安置されて、以後ムナールの地全体で凸月の下崇拝されるようになった[8]。
性質・特徴
イブの住人は、突き出た目・たるんだ唇・奇妙な耳を持ち、声を発しない緑色の異形として描かれ、人間の姿とは明確に異なる存在として位置づけられている[2]。彼らの信仰の中心はボクルグの偶像であり、凸月の下で踊るという月齢に結びついた儀礼を持つ[4]。イブそのものはサルナス建国前から存在する先住都市であり、物語全体を貫く「先住者を滅ぼした報いを受ける」という因果応報の構図の、滅ぼされる側・報復の起点となる存在として機能している。
関連する人物・存在
- ボクルグ: イブの住人が崇めていた水蜥蜴の神。イブ滅亡後もその偶像がサルナスへ持ち去られ、後のサルナス滅亡の直接の引き金になったとされる。深淵書架では神格記事として別途詳述している。
- サルナス: イブを滅ぼした側の都市で、同じ「サルナスの滅亡」を舞台とする姉妹記事。サルナス記事では都市の繁栄と滅亡そのものを中心に扱っており、本記事ではその発端となった先住都市イブ側の視点・記述を中心に据えている(内容の重複は避け、相互補完的な構成としている)。
主要登場作と読みどころ
- 「サルナスの滅亡」(1919年執筆/1920年発表): 本作そのもの。中心となる原典。イブという先住都市が滅ぼされる場面までは比較的簡潔に語られる一方、その後の偶像を巡る怪異(怪光・像の消失・大神官の死)が、直接の破壊描写を避けながら不穏さを積み上げていく構成になっている。
- ブライアン・ラムレイ『大いなる帰還』(The Sister City、1969年): ラヴクラフト原典を継承しつつ、ムナールの地を夢の国ではなく目覚めの世界の中東地域に設定し直した後続作家による拡張作品とされる。主人公ロバート・クルークがイブの遺跡を訪れ、自らをイブの水蜥蜴神の末裔と悟るに至る筋書きが描かれるという[※後続作家による拡張。原典には存在しない設定]。
- ブライアン・ラムレイ『荒野の底に』(Beneath the Moors): イブの住人に「スーム=ハー」という種族名を与え、イブの姉妹都市「ル=イブ」をイギリス北部の地底に設定したとされる、同じくラムレイによる後続作家的拡張作品[※後続作家による拡張。原典には存在しない設定]。
よくある誤解
Q. 「スーム=ハー」はラヴクラフトの原典に登場する種族名ですか?A. いいえ。原典「サルナスの滅亡」(1919年)ではイブの住人に固有の種族名は与えられていません。「スーム=ハー」という名称は、後年ブライアン・ラムレイが長編『荒野の底に』で与えたとされる後続作家による拡張設定であり、原典本文には登場しません。
Q. イブはどこにあったのですか? 現実の地理と対応する場所ですか?A. 原典では「ムナールの地」の湖畔と語られるのみで、現実世界の特定の場所との対応関係は明記されていません。なお後続作家ラムレイは『大いなる帰還』において、舞台を夢の国ではなく目覚めの世界の中東地域に設定し直したとされますが、これはラヴクラフト原典とは別の後続作家的解釈です。
出典
- [1] “before ever the men of Sarnath came to the land of Mnar, another city stood beside the lake; the gray stone city of Ib, which was old as the lake itself”(訳: 「サルナスの民がムナールの地へ到来するより前から、湖畔にはもう一つの都市が立っていた——湖そのものと同じくらい古い、灰色石の都市イブである」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1919年執筆/1920年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “It is written on the brick cylinders of Kadatheron that the beings of Ib were in hue as green as the lake and the mists that rise above it; that they had bulging eyes, pouting, flabby lips, and curious ears, and were without voice.”(訳: 「カダセロンの粘土円柱には、イブの住人は湖やその上に立ちのぼる霧と同じ緑色をしており、突き出た目、たるんだ唇、奇妙な耳を持ち、声を持たなかったと記されている」) — 同上 ↩
- [3] “It is also written that they descended one night from the moon in a mist; they and the vast still lake and gray stone city Ib.”(訳: 「また、彼らとその広大な静かな湖、灰色石の都市イブは、ある夜、霧とともに月から降りてきたとも記されている」) — 同上 ↩
- [4] “they worshipped a sea-green stone idol chiseled in the likeness of Bokrug, the great water-lizard; before which they danced horribly when the moon was gibbous”(訳: 「彼らは大蜥蜴神ボクルグを象った海緑色の石像を崇拝し、月が凸月のときにその前で恐ろしく踊っていた」) — 同上 ↩
- [5] “Not far from the gray city of Ib did the wandering tribes lay the first stones of Sarnath, and at the beings of Ib they marveled greatly. But with their marveling was mixed hate”(訳: 「灰色の都市イブから遠くない場所に、放浪の部族はサルナスの最初の礎を築いた。そしてイブの住人を見て彼らは大いに驚異したが、その驚異には憎悪が入り混じっていた」) — 同上 ↩
- [6] “Thus of the very ancient city of Ib was nothing spared, save the sea-green stone idol chiseled in the likeness of Bokrug, the water-lizard. This the young warriors took back with them as a symbol of conquest”(訳: 「かくして、この極めて古き都市イブには何ひとつ残されなかった。ただし大蜥蜴神ボクルグを象った海緑色の石像だけは別で、若き戦士たちは征服の証としてこれを持ち帰った」) — 同上 ↩
- [7] “weird lights were seen over the lake, and in the morning the people found the idol gone and the high-priest Taran-Ish lying dead…Taran-Ish had scrawled upon the altar of chrysolite with coarse shaky strokes the sign of DOOM.”(訳: 「湖の上に怪しい光が見られ、翌朝人々は像が消えているのに気づき、大神官タラン=イシュが死んでいるのを見つけた……タラン=イシュは貴橄欖石の祭壇に、荒々しく震える筆致で『破滅(DOOM)』の印を書き殴っていた」) — 同上 ↩
- [8] “half buried in the rushes was spied a curious green idol…That idol, enshrined in the high temple at Ilarnek, was subsequently worshipped beneath the gibbous moon throughout the land of Mnar.”(訳: 「葦の中に半ば埋もれた奇妙な緑色の像が見つかった……その像はイラルネクの高位神殿に安置され、以後ムナールの地全体で凸月の下崇拝された」) — 同上 ↩
- [9] “Very odd and ugly were these beings, as indeed are most beings of a world yet inchoate and rudely fashioned.”(訳: 「彼らは奇妙で醜い存在であった。もっとも、いまだ定まらず粗く形づくられたばかりの世界に生きる者の多くがそうであるように」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1919年12月3日執筆/1920年発表), 公式アーカイブ ↩
- [10] “But not much is written of these beings, because they lived in very ancient times, and man is young, and knows little of the very ancient living things.”(訳: 「だが、これらの存在について書き残されたものは多くない。彼らはきわめて太古の時代に生きており、人類はまだ若く、そうした太古の生き物についてほとんど知らないからである」) — 同上 ↩
- [11] “Why the beings and the sculptures lingered so late in the world, even until the coming of men, none can tell; unless it was because the land of Mnar is very still, and remote from most other lands both of waking and of dream.”(訳: 「なぜこれらの存在と彫刻が、人類の到来に至るまでそれほど遅くまで世界に留まっていたのかは、誰にも分からない――ムナールの地が、現の世界からも夢の世界からも、他の多くの土地から隔たった、きわめて静かな場所であったから、というのでなければ」) — 同上 ↩
- [12] “So one day the young warriors, the slingers and the spearmen and the bowmen, marched against Ib and slew all the inhabitants thereof, pushing the queer bodies into the lake with long spears, because they did not wish to touch them.”(訳: 「こうしてある日、投石兵、槍兵、弓兵からなる若き戦士たちがイブへ進軍し、その住人をことごとく殺した。彼らはその奇怪な亡骸に触れることを厭い、長槍で押しやるようにして湖へ沈めた」) — 同上 ↩
- [13] “And because they did not like the grey sculptured monoliths of Ib they cast these also into the lake; wondering from the greatness of the labour how ever the stones were brought from afar, as they must have been, since there is naught like them in all the land of Mnar or in the lands adjacent.”(訳: 「また、イブの灰色の彫刻を施した巨石も彼らは好まず、これも湖へ投げ込んだ。ムナールの地にもその周辺の土地にも似た石はどこにも無かったから、遠方から運ばれてきたに違いないその労力の大きさに、彼らは驚異の念を抱いた」) — 同上 ↩
- [14] “…where a green stone sea-wall kept back the waves that rose oddly once a year at the festival of the destroying of Ib.”(訳: 「……そこでは緑の石の海壁が、イブ滅亡の祭りの折に毎年不思議と高まる波を防いでいた」) — 同上 ↩
- [15] “Great honours were then paid to the shades of those who had annihilated the odd ancient beings, and the memory of those beings and of their elder gods was derided by dancers and lutanists crowned with roses from the gardens of Zokkar.”(訳: 「その折には、かの奇怪な太古の存在たちを滅ぼした者たちの霊に盛大な栄誉が捧げられ、彼らとその古き神々の記憶は、ゾッカルの庭の薔薇を冠した踊り手や楽人たちによって嘲笑された」) — 同上 ↩
- [16] “a megalopolis ranking with such whispered pre-human blasphemies as Valusia, R’lyeh, Ib in the land of Mnar, and the Nameless City of Arabia Deserta.”(訳: 「ヴァルーシア、ルルイエ、ムナールの地のイブ、アラビア砂漠の名もなき都市など、囁かれる人類以前の冒涜的な都市群と並び称される大都市」) — H. P. Lovecraft, “At the Mountains of Madness”(1931年2月~3月22日執筆), 公式アーカイブ ↩
- [17] “and thought of Sarnath the Doomed, that stood in the land of Mnar when mankind was young, and of Ib, that was carven of grey stone before mankind existed.”(訳: 「そして、人類がまだ若かった頃にムナールの地に立っていた滅びのサルナスと、人類が存在する前に灰色の石で刻まれていたイブとを思った」) — H. P. Lovecraft, “The Nameless City”(1921年1月執筆), 公式アーカイブ ↩




