概要
『クトゥルフの呼び声』(Call of Cthulhu)は、1981年にアメリカのケイオシアム(Chaosium)社から刊行された、テーブルトークRPG(TRPG)です。サンディ・ピーターセン(Sandy Petersen)が設計したこの作品は、ラヴクラフトの「宇宙恐怖」を卓上ゲームへと翻案し、プレイヤーキャラクターが強大な力と戦って勝利するのではなく、正気を保ちながら真実に近づくという、それまでのファンタジーRPGとは正反対の体験を提供しました。40年以上にわたり版を重ね、現在は第7版が現行版となっています。クトゥルフ神話を現代の大衆文化へ広めた最大の推進力の一つです。
前史──TRPGというジャンルの誕生
1974年:『ダンジョンズ&ドラゴンズ』
- テーブルトークRPG(TRPG、英語圏ではtabletop RPG/TTRPG)というジャンルそのものの起点は、ゲイリー・ガイギャックス(Gary Gygax)とデイヴ・アーンソン(Dave Arneson)が制作し、ガイギャックスの会社TSRが刊行した『Dungeons & Dragons』(1974年)に遡る
- 母体はミニチュア・ウォーゲーム(特にガイギャックスの中世戦闘ルール『Chainmail』)で、「1体の駒=1人のキャラクターを演じる」という個人視点の導入が革新点とされる
1978年:『RuneQuest』とBasic Role-Playing(BRP)の原型
- 『クトゥルフの呼び声』を生んだケイオシアム(Chaosium)社は、当初スティーブ・ペリン(Steve Perrin)らが設計し、グレッグ・スタフォード(Greg Stafford)の神話世界グローランサを舞台とするファンタジーTRPG『RuneQuest』(1978年)で本格始動した
- ペリンが作った、能力値に対して百分率(パーセンタイル)ダイスで判定するシステムを、スタフォードが16ページの小冊子に簡略化してまとめたのが「ベーシック・ロールプレイング(Basic Role-Playing, BRP)」の原型で、1980年に『RuneQuest』第2版のボックスセットの一部としてスタンドアロン版が刊行された(著者クレジットはスタフォード&リン・ウィリス)
- このBRPが、翌1981年の『Call of Cthulhu』をはじめ、『Stormbringer』(1981年)、『Pendragon』(1985年)など、以後のケイオシアム作品の基盤システムとなる
設計思想──「勝てない」ゲーム
ベーシック・ロールプレイング(BRP)を基盤に
- ケイオシアム社の汎用システム「ベーシック・ロールプレイング」(Basic Roleplaying)を土台とし、能力値に対して100面(パーセンタイル)ダイスで判定する方式を採用
- 戦闘を中心に据えた当時主流の『ダンジョンズ&ドラゴンズ』とは異なり、調査・探索・逃走を重視する構成
正気度(Sanity, SAN)システム
- 本作最大の発明とされるのが「正気度」ルール。プレイヤーは神話的存在や禁断の知識に触れるたびにSAN値を失い、精神を蝕まれていく
- 力を得ることが同時に破滅に近づくことを意味するこの仕組みが、ラヴクラフト的な「知ることの恐怖」をゲーム機構として再現した
- 探索者(investigator)と呼ばれるプレイヤーキャラクターは、多くの場合、事件の解決と引き換えに正気や生命を失う
版の変遷(英語版)
1981年:初版
- ケイオシアム社より刊行。設計はサンディ・ピーターセン
- ホラーを主題とする本格的なTRPGの先駆けとして高く評価される
1980年代の改訂(第2版〜第3版)
- ピーターセンが主導し、システムの根幹を大きく変えずに版を重ねる(第2版・第3版は1980年代前半)
- ピーターセンは初期の4つの版まで開発を監修したとされる
1990年代(第4版〜第5版)
- 第4版・第5版と改訂が続く。第5版ではリン・ウィリス(Lynn Willis)が共著者として名を連ねる
- ルールの洗練と、豊富なシナリオ・サプリメント群の充実が進む
2000年代(第6版)
- リン・ウィリスが引き続き共著者を務めた第6版が刊行される
- 基本システムは初版以来の連続性を保ち、長期にわたる版の安定性が本作の特徴となった
2014年:第7版
- リン・ウィリスの死後、2013年にマイク・メイソン(Mike Mason)がライン・エディターに就任
- ポール・フリッカー(Paul Fricker)とともに開発を進め、2014年に第7版を刊行
- 能力値をパーセンタイル表記に統一するなど、初めて基本ルールに本格的な手が入れられた版とされる
派生システムの分岐──『Call of Cthulhu』本流を離れて
Call of Cthulhu本流の版の変遷とは別に、1990年代以降、独自のルールでクトゥルフ神話を扱う派生システムが生まれていった。
Delta Green(デルタグリーン)──ファンジンから独立ルールへ
- 起点は1992年、ジョン・スコット・タインズ(John Scott Tynes)、デニス・デットワイラー(Dennis Detwiller)、アダム・スコット・グランシー(Adam Scott Glancy)らがファンジン『The Unspeakable Oath』に発表したシナリオ「Convergence」
- 当初はCall of Cthulhuの舞台設定サプリメントとして展開し、1997年にPagan Publishing社から一冊にまとめた設定資料集が刊行(同年のOrigins Award最優秀サプリメント賞を受賞)。現代の政府系秘密組織が神話的脅威に対処するという、20年代ではなく現代を舞台にした点が特徴
- のちにArc Dream Publishing社から独立したルールブックとして刊行され、Call of Cthulhuのサプリメントから単体のTRPGへと成長した
Trail of Cthulhu(トレイル・オブ・クトゥルー)──GUMSHOEシステム
- ケネス・ハイト(Kenneth Hite)がデザインし、ロビン・D・ロウズ(Robin D. Laws)考案の「GUMSHOEシステム」を採用したTRPG。2008年3月、Pelgrane Press社より刊行
- GUMSHOEの核は「手がかりとなる情報は、対応する技能さえ持っていれば判定なしで必ず入手できる」という設計思想で、手がかりを見逃して捜査が行き詰まる事態を防ぐ。ダイス判定は主にドラマ的な演出点の消費に使われる
- ENnie賞のBest Rules・Best Writingを受賞するなど高く評価され、Call of Cthulhuとは異なる「調査に失敗しない」ゲーム体験を提示した
その他の派生
- Cthulhu Dark、Pulp Cthulhuなど、より軽量なルールや異なるトーン(活劇寄りなど)を志向するシステム・サプリメントも派生的に生まれている。これらの詳細な位置づけは主要システム比較の記事に譲る
日本での受容(概要)
日本では、ホビージャパン(1986年、第2版翻訳)→エンターブレイン(2004年、第6版翻訳)→KADOKAWA(2019年、第7版翻訳『新クトゥルフ神話TRPG』)という版元の変遷を経て定着し、2010年代以降はニコニコ動画等のリプレイ動画文化を通じて若年層への浸透が加速した。詳細な年表は「日本におけるクトゥルフ神話の受容史」の記事を参照。
意義と影響
ホラーTRPGというジャンルの確立
- 『クトゥルフの呼び声』は、ホラーを主題とする卓上RPGというジャンルそのものを切り拓いた
- 「プレイヤーが勝利する」前提を覆し、無力さと破滅を体験させる設計は、後続の多くのゲームに影響を与えた
神話の大衆化装置として
- ラヴクラフトや後続作家の小説を読んだことのない層にも、TRPGを通じてクトゥルフ神話の世界観・用語・存在たちが浸透した
- ネクロノミコンやSAN値といった要素が、原典の外側で独自の生命を得て広まる契機となった
- 特に2010年代以降は、オンラインでのセッション動画やリプレイ文化を通じて、若い世代へ神話が伝播する主要な経路となっている
長編小説として生まれたクトゥルフ神話は、TRPGという「参加型の物語」の形式を得ることで、読む対象から「自ら演じ、拡張する」対象へと変化しました。この転換は、クトゥルフ神話が本質的に「開かれた共有宇宙」であることの現代的な証明でもあります。

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