概要
自動車でケープ・ジラードーへ向かっていた語り手は、道に迷ったすえ日没前の田舎道で朽ちかけた邸宅を見つけ、宿を借りようと敷地に踏み込みます。応対したのは、脊椎の病を患う老人アントワーヌ・ド・リュシーです。かつてルイジアナの名家から分かれ、ミズーリに「リヴァーサイド」という大農園を築いた一族の生き残りでした。老人は語り手を屋敷に泊め、暖炉もない部屋で、なぜこの廃墟に一人で留まり続けているのかを長い独白で語り始めます。
物語の大部分を占めるのは、この老人による回想です。息子デニスがパリ留学中に出会い連れ帰った花嫁マーセリーン・ベダール、彼女の意志を持つかのような黒髪、屋敷に滞在した退廃派の画家フランク・マーシュ、そしてマーシュが手がけた一枚の肖像画をめぐって、一族は取り返しのつかない惨劇に見舞われました。老人は自らの手で三つの死体を屋敷の地下に葬り、真相を偽装して生き延びてきたことを打ち明けます。
語り手はやがて屋根裏に隠された未完の肖像画そのものを見せられ、そこに描かれた黒髪が実際に蠢くという恐怖に襲われて発砲、絵を破壊してしまいます。屋敷は火に包まれ、老人は錯乱したまま姿を消しました。命からがら逃げのびた語り手は、道で出会った農夫から、その屋敷はすでに数年前に焼け落ち、老人も行方知れずになっていたという話を聞かされ、自分が体験した一夜がいつのことだったのかを測りかねたまま物語は幕を閉じます。最後の一文で、語り手はマーセリーンの出自を人種差別的な言葉で恐怖の対象として語ります。本記事はその語を写しません。
本作にはこのほかにも、黒人の使用人や農園で働く人々への当時の白人の視線による差別的な描写が繰り返し含まれています。本記事はそれらの語も写さず、作品にそうした表現が含まれているという事実のみを記します。
作品情報
- 原題: Medusa’s Coil
- 署名: 公式アーカイブ本文は「By H. P. Lovecraft for Zealia Bishop」[1]
- 執筆: 1930年5月[2]
- 初出: 『ウィアード・テイルズ』第33巻第1号(公式作品情報ページの表記は January 1938 [1939])、26–53ページ[3]
- 分量: 約16,600語(公式アーカイブ本文を機械集計)。全6章
- 語り: 一人称。名前は明かされないまま最後まで通される旅行者
- 時: 老人アントワーヌの回想部分は1916年夏(8月26日の惨劇を中心とする)。語り手が屋敷を訪れる枠の物語は、農夫の証言によれば屋敷が焼失してから数年後にあたる
- 舞台: ミズーリ州ケープ・ジラードー近郊、ミシシッピ川支流沿いの農園屋敷「リヴァーサイド」
- 主題: 意志を持つ黒髪という怪異、未完の肖像画に封じられた真実、血縁を断ち切ろうとする父子の惨劇
登場神格・用語
- クトゥルー — デニスが肖像画を目にした直後、「クトゥルーとエルダー・ワンズの時代から下ってきた恐るべき秘密」に言及します。老いた黒人女性ソフォニズバの叫びの中でも、方言化された呼び名で呼びかけられます
- ルルイエ — アントワーヌが肖像画の背景を「ルルイエそのものではないか」と推測する場面で名指しされます
- 『ネクロノミコン』 — マーセリーンの正体について、「ネクロノミコンで仄めかされ、イースター島の巨石像に象徴された」古い恐怖の一つだとデニスが語ります
- シャブ=ニグラス — ソフォニズバが屋敷の惨劇を悼んで叫ぶ言葉の中に、他の名と並んで登場します
- ユゴス — マーセリーンがフランクとの口論の中で、「ユゴスやジンバブエやルルイエに眠るもの」を呼び覚ますぞと言い放つ場面で言及されます
- タニト=イシス — パリ時代のマーセリーンが率いていた魔術サークルで名乗っていた通り名
- メデューサ/ゴルゴン — 作品全体の主題となるギリシア神話上のモチーフ。マーセリーンの黒髪と結び付けられます
- ベレニケの巻き毛 — マーセリーンの黒髪をめぐる会話の中で、夫を救うために髪を捧げたというプトレマイオス朝の伝説として引かれます
- グレート・ジンバブエ — マーセリーンやソフォニズバの由来とされる古代アフリカの遺跡として繰り返し語られます
あらすじ
第1章 荒れ果てた屋敷
秋も深まった夕暮れ、ケープ・ジラードーへの道に迷った語り手は、田畑の彼方に一軒の屋敷を見つけ、案内を乞うために敷地へ踏み入ります。石造りの門柱には往時の格式をしのばせる彫刻が残るものの、雑木と蔓に埋もれ、屋敷そのものも柱の一本が朽ち落ち、二階のベランダが傾いた廃墟でした[1]。ノックに応えて現れたのは、脊椎神経炎を患う痩身の老人。南部訛りの整った物腰で、迷い込んだ客に道順を告げようとしますが、複雑すぎて夜道では従いようがないと悟った語り手は、一晩の宿を頼み込みます。老人は驚きながらも、これも巡り合わせだと言わんばかりに客を招き入れました[1]。
第2章 リヴァーサイドの来歴
比較的片付いた二階の部屋に通された語り手は、老人アントワーヌ・ド・リュシーから一族の来歴を聞かされます。ルイジアナの名家の分家がミズーリに移り築いたこの農園は、かつて二百人もの黒人が働く盛時を誇りましたが、南北戦争でアントワーヌの父を失い、徐々に傾いていきました[1]。アントワーヌは一人息子デニスを厳格な名誉の伝統のもとに育て、プリンストンからパリのソルボンヌへと送り出します。そこでデニスは旧友フランク・マーシュを介し、古代エジプトやカルタゴの魔術を気取る秘密結社と、その頭目を名乗る女マーセリーン・ベダールに出会い、周囲の反対も聞かず結婚してしまいます[1]。
連れ帰られたマーセリーンは、オリーブ色の肌と際立った美貌の持ち主でしたが、アントワーヌはどうしても彼女に馴染めませんでした。特に膝を越える長さの黒髪は、まるでそれ自体が別の生き物であるかのように艶めき、時には自ら形を変えているようにさえ見えたといいます[1]。屋敷の使用人たちも次々と暇を取る中、老いたズールー人の女ソフォニズバだけはマーセリーンにひざまずかんばかりの敬意を示し、アントワーヌはその様子に薄気味悪さを覚えます[1]。
第3章 画家フランク・マーシュの来訪
1916年の夏、パリで消耗しきったフランク・マーシュが静養のため屋敷を訪れます。デカダン派の画家として名を上げながらも創作の泉が涸れていたマーシュは、マーセリーンの容姿と黒髪が呼び覚ます太古めいた気配にこそ新たな傑作の鍵があると確信し、デニスに肖像画のモデルを申し出ます[1]。デニスは複雑な思いを抱えつつも承諾し、屋根裏に画室が用意されて制作が始まりました。だが日を追うごとに、マーセリーンがデニスへの気持ちを冷まし、あからさまにマーシュへ傾いていく様子が明らかになっていきます[1]。
事態を案じたアントワーヌは、金策を口実にデニスをニューヨークへ送り出し、その隙に問題を収めようと画策します。だが夜のベランダで盗み聞いたマーシュとマーセリーンの会話は、かえって不穏さを増すものでした。絵を見せてほしいとせがむマーセリーンに、マーシュは「お前のことだ――そう、それはそうだが、それ以上のものでもある」とだけ答え、意味深な口調を崩しません[1]。マーセリーンは苛立ちを募らせ、地下室に籠もるソフォニズバのもとへ通っては「知られざるカダス」や「太古の秘密」を口にするようになりました[1]。
第4章 惨劇の夜
八月二十六日、アントワーヌが鎮痛薬で眠りこけている間に事件は起こります。目覚めた彼は、部屋の天井ににじむ血の染みからマーセリーンの部屋へ駆け上がり、髪をむしり取られ、背に足跡を残された惨殺死体を発見します[1]。血の跡をたどって屋根裏に上がると、そこには絶命したマーシュと、返り血にまみれ山刀を手にした我が子デニスの姿がありました。実はデニスは、妻からの手紙が不審に変わったことに耐えかねてニューヨークから密かに戻っており、使用人を町へ遠ざけたうえで、マーシュが隠し続けていた肖像画を無理やり見てしまったのです[1]。
錯乱したデニスは、絵を目にした瞬間にマーセリーンの正体を悟り、彼女を殺め、切り落とした黒髪の房が独りでに蛇のようにのたうってマーシュに絡みつき、絞め殺すのを止められなかったのだと訴えます[1]。その言葉を裏付けるように、屋敷の外からはソフォニズバの絶叫が響き続けていました。デニスはアントワーヌにも刃を向け、揉み合いの末に命を落とします[1]。
第5章 隠蔽と呪縛
一夜にして息子と客と花嫁を失ったアントワーヌは、正気を保ったまま三つの遺体を地下室に生石灰で葬り、血痕を洗い流し、天井の染みを塗り直して惨劇の跡を消し去ります。使用人には「若い三人はセントルイスへ行った」と偽り、以後は偽造の手紙で欧州行きを装い続けました[1]。デニスの遺言どおり絵を焼くべきだったにもかかわらず、彼は一週間後にみずから覆いを外して絵を見てしまいます。そこに描かれていたのは、ルルイエとも見紛う異形の光景の中でマーセリーンが杯を掲げる場面で、彼女の眼と髪はいまなお生きているかのように動いて見えました[1]。
その日を境にアントワーヌは絵の番人にして囚人となります。地下では大きな黒い蛇の這った跡が見つかり、ソフォニズバは死ぬまで夜な夜な地下室に通い続けました。屋敷は徐々に荒廃し、近隣の人々は日暮れ後に近寄らなくなり、アントワーヌはただ一人、屋敷と絵を守り続ける生活を強いられます[1]。
第6章 燃える屋敷
語り終えたアントワーヌは、語り手を屋根裏の画室へ案内し、蝋燭の灯りのもとで絵の覆いを外します。朽ちかけてなお恐るべき異界の光景と、いっこうに腐らない黒髪を目にした語り手は、その髪が実際に蠢き牙を持つ顔がこちらを向くという幻覚に耐えきれず、拳銃で絵を撃ち抜いてしまいます[1]。絵が崩れ落ちた瞬間、アントワーヌは「地下から彼女が上がってくる」と叫び、語り手を連れて逃げ出しますが、屋敷の奥から迫る足音に錯乱し、窓を破って走り去ってしまいます。語り手は辛くも屋敷を脱出し、振り返ると屋根裏から火の手が上がり、遠くの湿地では何かに追われる人影と、藪を這う何かの気配を目にしました[1]。
道で出会った農夫は、この屋敷が数年前にすでに焼け落ち、アントワーヌも行方知れずになっていたと語ります。自分が過ごした一夜が現実だったのかどうかも測りかねたまま、語り手は真相を伏せて立ち去ります。最後の一文で、語り手はマーセリーンの出自を人種差別的な言葉で恐怖として語り、物語は幕を閉じます。本記事はその語を写しません。
読みどころと注目テーマ
意志を持つ黒髪という怪異
本作の核にあるのは、切り落とされてもなお蛇のようにうねり、絞殺の凶器となる黒髪という発想です。ギリシア神話のメデューサやプトレマイオス朝のベレニケの逸話が繰り返し引かれ、髪という身近なモチーフに神話的な恐怖を重ねる手つきが際立ちます。地下に葬られたはずの髪が、生石灰の中でなお動きを保っているという示唆こそ、物語の最後まで恐怖を持続させる仕掛けです。
覆いを外すまで明かされない一枚の絵
フランク・マーシュが描いた肖像画は、物語の大半を通じて黒い布に覆われたまま姿を見せません。デニスが無理やり覆いを外して発狂し、アントワーヌが週を置いて自ら覆いを外して囚われの身となり、最後に語り手が三度目に覆いを外して発砲する――同じ絵を段階的に開示するこの反復こそ、読み進めるほどに緊張を高めていく仕掛けです。絵に描かれた光景がルルイエを思わせる異界の情景として語られる点も、屋敷という閉ざされた空間の恐怖を宇宙的な規模へと押し広げます。
血のつながりを断とうとする父と子
老人アントワーヌの語りは、息子デニスへの愛情と、その妻への嫌悪との間で終始揺れ動きます。デニスの最期の言葉が「血や婚姻でつながった者すべてを絶たねばならない」という趣旨であった点には、一族の血統そのものを守ろうとする執念の裏返しが表れているでしょう。アントワーヌ自身も、絵を焼くという息子の遺言を守れず、結果として自らを屋敷に縛りつけてしまう皮肉な結末を迎えます。
作中の差別表現について
本作を読むと、黒人の使用人や農園で働く人々に対する当時の白人の視線に基づく差別的な描写に繰り返し行き当たるのです。とりわけ物語の最後の一文は、マーセリーンの出自を人種差別的な言葉で恐怖の対象として暴くという構成になっています。これは作品の仕掛けとして機能していますが、本記事はその語を写さず、差別的な表現が作品に含まれているという事実のみを記します。読みどころとして肯定するものではありません。
執筆背景と影響
公式年譜「Lovecraft’s Fiction」は、本作を「ゼリア・ビショップとの共作、1930年5月」と記しています[2]。初出は『ウィアード・テイルズ』第33巻第1号で、公式作品情報ページの表記は「January 1938 [1939]」、26–53ページです[3]。ビショップとの分担や執筆の経緯については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
同じくビショップのための代作である「イグの呪い」(1928年)や「墳丘」(1929年12月〜30年初め)と同様、本作もアメリカ中西部を舞台に、旧家や異民族の血統をめぐる恐怖を軸に据えています。本文中でも、老いた黒人女性ソフォニズバが古代アフリカの魔術的伝統の継承者として描かれる点、そしてマーセリーンの正体が最終的に血統の秘密として明かされる構成の点で、この二作と共通する要素が見られます。三作にどの程度共通する着想があったかについて、公式アーカイブは何も述べておらず、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft [for Zealia Bishop], “Medusa’s Coil” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/mc.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(ビショップと、1930年5月)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘Medusa’s Coil'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/mc.aspx初出『ウィアード・テイルズ』第33巻第1号(January 1938 [1939])26–53ページの出典。


