編集部注(著作権について): 初出「The Mound」は、ラヴクラフトの生前には発表されず、大幅に短縮された版が1940年11月号の《Weird Tales》に掲載され、完全版の発表は1989年です。この作品のパブリックドメイン状態は当サイトでは確認できていないため、「原典での描写」節に限り、公式アーカイブ(hplovecraft.com)の本文を出典を明記したうえで短く引用し、他の節は要約で構成しています。
概要
クン=ヤン(K’n-yan)は、H・P・ラヴクラフトがゼリア・ビショップの代作として執筆した中編「The Mound(墳丘の怪)」に登場する、青く光る(blue-litten)地底世界である。その下には赤く光る地底世界ヨス、さらに光の届かない黒いンカイが連なる三層構造の一角として位置づけられる[8]。かつて地底世界全体には複数の種族が暮らしていたが、最終的にツァス(クン=ヤンの都)の民が他を征服し奴隷化したと語られる[6]。
原典での描写
青く光る地底世界と都市ツァス
「墳丘」でサマコナが地底世界の名を尋ねる場面では、その名は手記に「シナイアン」と記されているが、著者の補足説明と発音記号からすると、英語話者の耳には音として「クン=ヤン」と表すのが最も近いだろうと語られる[24]。クン=ヤンの民はみな、山脈の彼方にそびえる高く大きな都ツァスに暮らす。かつては複数の種族がこの地底世界全体――測り知れぬ深淵にまで広がり、青く光るこの地域のほかに、より古い非人間種族の遺物が発掘される赤く光るヨスの地域も含む――に住んでいたが、時を経てツァスの民が他の種族を征服し、奴隷としたと語られる[25]。
住民の姿、不死と退廃
サマコナが地底で知った事実のうち、とりわけ息をのむものがあった。この数千年のあいだに老いと死は克服され、暴力あるいは本人の意志による場合を除いて、人が衰えることも死ぬこともなくなったという[26]。この社会を支えるのは、家畜であると同時に食用でもある奴隷階級「gyaa-yothn」だった。原文は、彼らがもはや完全な人間とはいえない特別な奴隷階級であり、支配者層の肉ではなく彼らの肉こそがクン=ヤンの主要な食肉であったと記す[27]。
信仰(イグ・トゥルー・ツァトゥグァ)と下層のヨス・ンカイ
ツァスでは宗教が主要な関心事でありながら、超自然の実在を本気で信じる者はほとんどいなかった。求められていたのは、色彩豊かな祖先の信仰にまつわる神秘的な気分と官能的な儀式が生む、美的・感情的な高揚だったという。全人類を星々から連れてきた蛸頭の神として太古より象徴される、宇宙の調和の霊トゥルーを祀る神殿と、「万蛇の父」として生命の原理を象徴するイグの秘儀めいた社は、ともにクン=ヤンで最も贅を尽くした建造物だったと語られる[28]。ツァトゥグァについては、ヨスの写本に伝わる伝承として、爬虫類のヨスの民が生まれるよりも前から偉大な文明と強大な神々を有していた、光の届かない内なる領域から来たと伝えられる。この信仰はイグとトゥルーの古い信仰に匹敵するほど栄えたが、クン=ヤンの民が原子力の探照灯を手に黒き深淵ンカイへ下りたとき、彼らが見つけたのは石の水路を這う無定形の黒い粘液の塊であり、蟇蛙の姿をしたツァトゥグァそのものではなかったという[29]。
サマコナの手記と地上との関係
太古のある時代、地上世界の大半が海に沈んだ。生き残ったわずかな者だけがその報せをクン=ヤンへ伝えたに過ぎず、外の世界に留まった者は誰であれ宇宙の悪魔に与する邪悪な存在に違いないとされ、陽光と星明かりの土地との往来は突如として絶たれたという[30]。地底を訪れる地上人に求められたのはただひとつ、クン=ヤンの実在を地上へ持ち帰って告げないことであり、この掟に従った者は短くはあれ幸福な生涯を送ったが、背いて逃れようとした者の末路については「まことに不運なことになった」と記されるのみである[31]。サマコナ自身は地上の事情に通じた人物として歓迎されたが、彼に課された唯一の重大な障害は、太陽と星々、そして彼のものであった祖国スペインの世界へ二度と戻ってはならないという、動かしがたい掟だった[32]。物語終盤では、コロナードら新大陸のスペイン人に地底の存在が知られることをツァスの民が恐れ、地上との境の見張りが改めて置かれることになった様子も描かれる[33]。
他作品での言及
「彼方より」(Out of the Aeons、1933年、ヘイゼル・ヒールドとの共作)では、フォン・ユンツトがガタノトーア信仰の痕跡を示唆した地域のひとつとして、伝説の地底王国クン=ヤンの名が一度挙げられるのみで、独自の描写はない[34]。
「闇に囁くもの」(1930年2月24日-9月26日)では、地底に広がる未知の生命の世界として、青く光るクン=ヤン・赤く光るヨス・光の届かない黒いンカイの三つが列挙され、恐ろしいツァトゥグァはこのンカイから来たと簡潔に語られる[35]。
基本プロフィール
- 分類: 地名(地底世界)
- 欧文表記: K’N-YAN
- 初出・出典: 「The Mound(墳丘の怪)」(1929年12月〜1930年1月執筆/1940年11月号《Weird Tales》に短縮版発表、1989年完全版発表)[1][3]
- 地理設定: 青く光る地底世界。下層に赤く光るヨス、さらに下層に光の届かない黒いンカイ[6][8]
由来・モデル
「The Mound」は、ゼリア・ビショップがラヴクラフトに代作依頼した中編である。ビショップは当初、首のないインディアンの幽霊が出る墳丘の物語を求めていたが、その構想は短く単純な幽霊譚にとどまっていたため大きな自由度が生じ、ラヴクラフトはこれを地底文明クン=ヤンへの入口を隠す物語へと拡張した[1][2]。日本語の二次資料は、この拡張に加え、執筆直前にラヴクラフトが旅行先で実際に洞窟を体験したことが取材になったとも伝えている(この点は二次資料のみに基づく記述であり、断定はできない)[5]。
「The Mound」は、ラヴクラフトが非人間文化を詳細に描いた3作品のうちの1つとされ、他の2作は『狂気の山脈にて』『時間からの影』である。代作作品であるため、この2作ほど広くは知られていないという[4]。
歴史・年表
- 1929年12月〜1930年1月: ラヴクラフトが「The Mound」を執筆[1]。
- 作中設定・1545年頃: スペイン人探検家パンフィロ・デ・サマコナ・イ・ヌニェスが、先住民の手引きで地底世界クン=ヤンへ至ったとする手記(円筒内の巻物)が物語の軸となる[9]。同じ頃、クン=ヤンの門番一族の伝承を継ぐ貴族女性T’la-yubが、サマコナに個人的な愛着を抱き、彼の脱出計画に協力したと語られる[23]。
- 1940年11月: 大幅に短縮された版が《Weird Tales》に掲載される(ラヴクラフトの生前には未発表)[3]。
- 1989年: 完全版が発表される[3]。
- 物語の結末部: 地上に現れた異形の存在は、再生されたサマコナの成れの果てであり、その胸には壊れたスペイン語で「T’la-yubの首なき体にてクン=ヤンの意志により捕らえられた」という趣旨のメッセージが刻まれていたとされる[12]。
性質・特徴
作中でクン=ヤンは青く光る地底世界として描かれ、その下には赤く光るヨスという、より古い非人間種族の遺物が発見された地域が広がる。ツァスの民は他の種族を征服し、奴隷化したとされる[6]。クン=ヤンの民は、赤色地底世界ヨスからツァトゥグァ信仰を持ち帰り、蟇蛙の像を青色の地に安置した。この信仰はイグとトゥルー(クトゥルフ)の古い信仰に匹敵するほど栄えたが、後に急速に廃れたという[7]。地底の種族はクトゥルフ・イグ・シュブ=ニグラスを崇拝し、ある事件が起こるまではツァトゥグァも崇拝していたとされる[10]。
なお「闇に囁くもの」の記述によれば、地底には青く光るクン=ヤン、赤く光るヨス、光の届かない黒いンカイという三層構造があり、恐ろしいツァトゥグァはこのンカイから来たとされる[8]。
日本語の二次資料は、クン=ヤンの民が超能力を持ち、言葉ではなくテレパシーで会話すること、肉体を非物質化して壁を通り抜けられること、老いを克服し自ら死を望まない限り死なない(暴力・事故を除く)ことを伝えている[13]。社会は支配階級と奴隷階級に分かれ、奴隷階級は同時に食肉でもあるとされる。原典では、gyaa-yothn(ジャー=ヨスン)と呼ばれるこの家畜/食用の奴隷階級はヨスの角の生えた四足獣と交配させて作られた存在で、大半は完全な人間ではなくなっていると語られる[11][14]。同じ二次資料は、クン=ヤンが合理的に発達しすぎた結果、社会全体が倦怠状態に陥っており、地上世界を怖れているとも伝えている[15]。
日本語の二次資料によれば、作中でサマコナが聞き取った地底世界の名は「Xinaian」で、主人公による再音訳が「クン=ヤン」であるという。地底世界は青く輝く都ツァスと赤く輝く廃墟ヨスに分かれ、地下世界は無尽蔵の鉱脈を有し、黄金なども卑金属として扱われるほど豊かであると伝えられる[16]。
関連する人物・存在
ラヴクラフトは、クラーク・アシュトン・スミス創造のツァトゥグァを、クトゥルフ・イグ・シュブ=ニグラス・ナグとイェブといった存在と並べ、地底のクン=ヤンに配置することで自作と接続したと整理される[17]。
- クトゥルフ: クン=ヤンの地底種族が崇拝する神格の一つ[10]。
- イグ: 同じくクン=ヤンで崇拝される神格。ツァトゥグァ信仰がイグ信仰に匹敵するほど栄えたとも語られる[7][10]。
- シュブ=ニグラス: クン=ヤンの地底種族が崇拝する神格の一つ[10]。
- ツァトゥグァ: クン=ヤンの民が赤色地底世界ヨスから信仰を持ち帰った神格。「闇に囁くもの」の記述では、より下層の黒いンカイから来たとされる[7][8][10]。
主要登場作と読みどころ
- 「The Mound(墳丘の怪)」(1929-30年執筆/1940年発表・1989年完全版): クン=ヤンの唯一の本格的な登場作。スペイン人探検家サマコナの手記を軸に、地底文明の地誌・社会・信仰が詳細に描かれる、ラヴクラフトが非人間文化を丹念に描いた3作品の一つ[4][9]。
- 「闇に囁くもの」(1930年): クン=ヤン・ヨス・ンカイという三層構造への短い言及があり、ツァトゥグァの出自をンカイに位置づける記述が見られる[8]。
- 『崑央の女王』(朝松健、1993年): 「The Mound」とクラーク・アシュトン・スミス「七つの呪い」を主なモチーフとする、原作以降のクトゥルフ神話作品。クン・ヤン(崑央)をアジアの地底世界として再設定していると伝えられる[18]。黒田藩プレスから英訳(Queen of K’n-Yan)が刊行され、ブライアン・ラムレイが推薦文を寄せたとされる[19]。
よくある誤解
Q. クン=ヤンとヨス、ンカイは同じ場所ですか?A. いいえ。青く光るクン=ヤンと赤く光るヨスは「The Mound」で言及される二層であり、さらに黒く光の届かないンカイは「闇に囁くもの」で言及される、より下層の領域です[6][8]。三者は別々の地底世界として語り分けられています。
Q. クン=ヤンの民は現在もツァトゥグァを崇拝しているのですか?A. 原典によれば、クン=ヤンの民はヨスからツァトゥグァ信仰を持ち帰り一時は大いに栄えましたが、後に急速に廃れたと語られており、「ある事件が起こるまでは」崇拝していたという言及もあります。現在も継続して崇拝しているとは記されていません[7][10]。
出典(主な参照資料)
本文中の[1]〜[23]は旧版が付けた参照番号で、対応する個別の出典は旧版に残っていない(旧版は二次資料の要約で構成されており、その二次資料への参照は削除した)。原文で確認できる箇所は「原典での描写」節に[24]以降として出典つきで示す。
- The Mound by H. P. Lovecraft for Zealia Bishop(公式アーカイブ) — https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/mo.aspx
- The Whisperer in Darkness by H. P. Lovecraft(公式アーカイブ) — https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/wid.aspx
- [24] “The underground world, Zamacona learned, bore an ancient name which the manuscript records as “Xinaián”, but which, from the writer’s supplementary explanations and diacritical marks, could probably be best represented to Anglo-Saxon ears by the phonetic arrangement K’n-yan.”(訳: 「地底世界は、サマコナが知ったところによれば、手記には『シナイアン』という太古の名で記されているが、著者の補足説明と発音記号からすると、英語話者の耳には音として『クン=ヤン』と表すのが最も近いだろう」) — H. P. Lovecraft for Zealia Bishop, “The Mound”(1929年12月-1930年初頭), 公式アーカイブ
- [25] “The people of K’n-yan all dwelt in the great, tall city of Tsath beyond the mountains. Formerly several races of them had inhabited the entire underground world, which stretched down to unfathomable abysses and which included besides the blue-litten region a red-litten region called Yoth, where relics of a still older and non-human race were found by archaeologists.”(訳: 「クン=ヤンの民はみな、山脈の彼方にそびえる高く大きな都ツァスに暮らしていた。かつては複数の種族がこの地底世界全体――測り知れぬ深淵にまで広がり、青く光る地域のほかに、より古い非人間種族の遺物が考古学者によって発見される赤く光るヨスという地域をも含んでいた――に住んでいた」) — 同上
- [26] “He learned, for instance, that during the past few thousand years the phenomena of old age and death had been conquered; so that men no longer grew feeble or died except through violence or will.”(訳: 「彼が知ったことのひとつに、この数千年のあいだに老いと死という現象が克服され、人はもはや暴力か本人の意志による場合を除いて衰えることも死ぬこともなくなった、というものがあった」) — 同上
- [27] “The beasts or gyaa-yothn, they explained, surely were curious things; but were really very harmless. The flesh they ate was not that of intelligent people of the master-race, but merely that of a special slave-class which had for the most part ceased to be thoroughly human, and which indeed was the principal meat stock of K’n-yan.”(訳: 「その獣、あるいはgyaa-yothnは、確かに奇妙なものではあるが、実に無害なのだと彼らは説明した。彼らが食べる肉は知性ある支配者層の肉ではなく、大半がもはや完全な人間ではなくなった特別な奴隷階級の肉に過ぎず、それこそがクン=ヤンの主要な食肉であった」) — 同上
- [28] “Temples to Great Tulu, a spirit of universal harmony anciently symbolised as the octopus-headed god who had brought all men down from the stars, were the most richly constructed objects in all K’n-yan; while the cryptic shrines of Yig, the principle of life symbolised as the Father of all Serpents, were almost as lavish and remarkable.”(訳: 「全人類を星々から連れてきた蛸頭の神として太古より象徴される、宇宙の調和の霊トゥルーを祀る神殿は、クン=ヤン中で最も贅を尽くした建造物であり、『万蛇の父』として生命の原理を象徴するイグの秘儀めいた社も、それにほとんど劣らず豪奢で見事なものだった」) — 同上
- [29] “Yothic legend said that it had come from a mysterious inner realm beneath the red-litten world—a black realm of peculiar-sensed beings which had no light at all, but which had had great civilisations and mighty gods before ever the reptilian quadrupeds of Yoth had come into being.”(訳: 「ヨスの伝承によれば、それは赤く光る世界のさらに下にある謎めいた内なる領域――光をまったく持たない、独特の感覚を備えた者たちの黒い領域であり、ヨスの爬虫類が生まれるよりも前から偉大な文明と強大な神々を有していた――から来たのだという」) — 同上
- [30] “No man not a slave of the space-devils, it was argued, could live long on the outer earth; and it was decided that all beings who remained there must be evilly connected. Accordingly traffic with the lands of sun and starlight abruptly ceased.”(訳: 「宇宙の悪魔の奴隷でない者は誰も外の地上で長く生き延びられぬと論じられ、そこに留まった者は皆、邪悪な繋がりを持つに違いないと結論づけられた。こうして陽光と星明かりの土地との往来は突如として絶たれた」) — 同上
- [31] “The only thing demanded of such visitors was that they refrain from going back and informing the outer world of K’n-yan’s positive existence…Those who had obeyed the injunction had lived happily, though regrettably briefly…As for those who disobeyed and tried to escape—it was very unfortunate about them.”(訳: 「そうした訪問者に求められたのはただひとつ、クン=ヤンの実在を地上へ持ち帰って告げないことだけだった……その掟に従った者は、残念ながら短くはあったが幸福な生涯を送った……だが背いて逃げ出そうとした者については――まことに不運なことになった」) — 同上
- [32] “The one great drawback was the inexorable ruling that he might never return to the world of sun and stars and Spain which was his.”(訳: 「唯一の重大な障害は、彼が二度と、太陽と星々、そして彼のものであったスペインの世界へ戻ってはならないという、動かしがたい掟であった」) — 同上
- [33] “Alarm for the continued secrecy and safety of K’n-yan shewed in the faces of the visitors, and Zamacona absorbed from their minds the fact that from now on sentries would undoubtedly be posted once more at all the unblocked passages to the outside world which the men of Tsath could remember.”(訳: 「クン=ヤンの秘密と安全が保たれ続けるかという不安が訪問者たちの顔に浮かび、ツァスの民が覚えている限りのすべての封鎖されていない通路に、今後は間違いなく再び見張りが置かれるだろうということを、サマコナは彼らの心から読み取った」) — 同上
- [34] “Von Junzt implied its presence in the fabled subterrene kingdom of K’n-yan”(訳: 「フォン・ユンツトは、伝説の地底王国クン=ヤンにもそれ(ガタノトーア信仰)が存在することを示唆した」) — H. P. Lovecraft for Hazel Heald, “Out of the Aeons”(1933年), 公式アーカイブ
- [35] “great worlds of unknown life down there; blue-litten K’n-yan, red-litten Yoth, and black, lightless N’kai. It’s from N’kai that frightful Tsathoggua came”(訳: 「そこには未知の生命の広大な世界がある――青く光るクン=ヤン、赤く光るヨス、そして黒く光の届かないンカイだ。恐ろしいツァトゥグァが来たのは、そのンカイからなのだ」) — H. P. Lovecraft, “The Whisperer in Darkness”(1930年2月24日-9月26日), 公式アーカイブ





