概要
2026年8月21日から23日まで、ドイツ・ハンブルクのハールブルク市立公園にある野外劇場(Freilichtbühne im Harburger Stadtpark)で、Miskatonic Theaterによる『クトゥルフの呼び声』の舞台版「Cthulhu im Park」が上演されました。各日20時開演[1]。脚本・演出はLars Henriks、出演はChiara Lüssow、Nisan Arikan、Vincent Ellmers、Sascha Weingarten、Yasmine Volgmannの5名で、主催はANTIKYNOです[2]。
企画の背景には、二つの100周年が同じ年に重なったという事情があります。ラヴクラフトが「クトゥルフの呼び声」を書いたのは1926年の夏[3]、ハールブルク市立公園が開園したのも同じ1926年の5月[4]。劇団の公式ページは前者を「H・P・ラヴクラフトの最も有名な創造物であるクトゥルフが100歳になる」と書き、続けて「彼だけではない。ハールブルク市立公園も今年、100歳という堂々たる年齢に達する」と並べています[9]。二つの節目を祝うために『クトゥルフの呼び声』を野外劇場に載せる、というのが企画の建て付けです。
なお筆者は現地で上演を観ていません。以下に書けるのは劇団の公式プログラムと主催者側が公開した文言までで、実際の舞台上で何がどう演じられるかは未確認のまま扱います。
会期と内容
内訳は公式プログラムに掲載されています[1]。舞台本編は21〜23日の3公演ですが、無料の演劇散策はその前日から行われました。
- 8月20日(木) 17:00〜18:00と20:00〜21:00の2回、公園内の演劇散策(入場無料)。
- 8月21日(金) 18:30から影絵芝居、ドイツ・ラヴクラフト協会のブース、劇団のオリジナルカクテルとグッズ販売、ヴィーガンの食事。20:00〜22:00に初日公演。
- 8月22日(土)・23日(日) 16:00〜17:00に演劇散策。18:30から前日と同じ物販・飲食。20:00〜22:00に本編。
本編のチケットはEventimで7ユーロから販売されました[6]。主催者側の案内では、本編の入場を「Pay what you can(払える額を自分で決める)」方式と説明しています[5]。
Miskatonic Theaterはハンブルクを拠点に、ラヴクラフトほかホラー作家の作品の舞台化を続けてきた劇団です。公演の案内文は同劇団を「世界で唯一のホラー劇場」と紹介しています[5]。劇団の公式サイトが掲げているのは、NDRの「ハンブルクでおそらく最も独創的な劇場」、TAZの「頭から触手へ引っくり返した」といった外部の評です[7]。劇団名は原典のミスカトニック大学と同じ綴りです。
舞台版は、原典の何を捨てたのか
『クトゥルフの呼び声』は、怪物と戦う話ではありません。語り手フランシス・サーストンが、大叔父の遺品から出てきた新聞の切り抜き、彫刻家ウィルコックスの夢の記録、ニューオーリンズ警察のルグラス警部が語った摘発の顛末をエインジェル教授が書き留めた記録、ノルウェー人航海士ヨハンセンの手記を突き合わせ、互いに面識のない人物が別々の場所で残した書き物のあいだに意味が通ってしまうことに慄く話です。恐怖が生まれるのは遭遇の場面ではなく、照合の瞬間にあります。
この構造は、上演にとって扱いにくいものです。舞台に置けるのは、いま目の前で起きていることだけだからです。では今回はどう解いたのか。劇団が公開しているあらすじによれば、舞台版の主人公は警部ルグラス。アーカムでの警察勤務から休暇を取るつもりで乗ったクルーズ船の船上で凄惨な儀式殺人が起こり、世界を混沌へ突き落とそうとする教団と対峙することになる、という筋立てです。そして犯人を追い詰める前に、彼女は自分自身である問いに答えなければならない——「それはそんなに悪いことだろうか?」[9]。地域の催事案内はこの舞台を「1926年へのクルーズ」と紹介しており[8]、時代設定も原典が書かれた年に合わせてあることが分かります。
あらすじの一文目から、原典との違いが始まっています。
語り手がいません。 原典の主人公サーストンは、事件の現場に一度も立ちません。彼がするのは読むことだけで、読者はその肩越しに文書を追います。舞台版の主人公は事件の只中にいる警部で、読む人ではなく調べる人です。文書を突き合わせる時間そのものが、上演から外れています。
脇役だったルグラスが主役になり、性別も勤務地も変わっています。 原典のルグラスはニューオーリンズ市警の男性警部(John R. Legrasse)で、ルイジアナの沼地で邪教集団を摘発した当事者として第二部に現れます。ただし彼自身が報告書を書いたわけではありません。1908年の考古学会の席でその顛末を口頭で語り、それをエインジェル教授が書き留めた——というのが原典での彼の位置です(サーストンは後にニューオーリンズを訪ね、本人からも話を聞いています)。舞台版では女性の警部となり、勤務地はアーカムです。原典のルグラスとアーカムのあいだに接点はありません。三つの証言のうち一つの語り手を、全編の主人公へ引き上げたことになります。
沼地の摘発が、船上の連続殺人になっています。 原典でルグラスが踏み込むのは陸の沼地で、そこで見つかるのは儀式の最中の集団です。舞台版は事件を航海中の船内に移しました。逃げ場のない場所で犯人を追うミステリの型で、原典の第二部が持っていた「余所者が辺境の信仰に踏み込む」という構図とは別のものです。
原典に無い問いが足されています。 「それはそんなに悪いことだろうか?」。原典のサーストンが最後に書きつけるのは、自分の原稿が他人の目に触れないでほしいという願いであって、教団の側に立つかどうかを迷う場面はありません。神話に触れた人間が向こう側へ傾くという主題は、ダーレス以降の拡張やTRPGの層が繰り返し扱ってきたもので、1926年の『クトゥルフの呼び声』には無い選択です。
比べておきたいのが、2005年の映画版の解き方です。H.P. Lovecraft Historical Societyは、原典が書かれた時代の映画言語であるモノクロのサイレント映画という形式を選び、記録や台詞を字幕(インタータイトル)として画面に文字で出しました。文書でできた物語を、文字が出る映像形式へ載せ替えたわけです。舞台にはその手がありません。今回の上演が文書を捨てて事件そのものを見せる方向へ振ったのは、形式から見れば筋の通った判断です。ただし、そうすると原典が恐怖を生んでいた場所——別々の人間が書いた記録が噛み合ってしまう瞬間——は舞台に残りません。
公園を歩く企画のほうが、原典の形をしている
併催の演劇散策のほうが、本編よりもむしろ原典の構造をなぞっています。公式プログラムの説明はこうです。「パルプ雑誌《ウィアード・テイルズ》の誌面に、太古の秘密教団の手がかりを見つけた! ハールブルク市立公園の10箇所で、俳優たちがクラーク・アシュトン・スミス、ロバート・E・ハワード、ロバート・ブロック——そしてもちろんH・P・ラヴクラフトといった、ジャンルの巨人たちによる古典的短編を上演する。観客とともに、我々は暗い陰謀の正体を突き止める」[1]。
雑誌の誌面から手がかりを拾い、公園に散った10箇所を歩いて回り、断片を繋ぎ合わせて教団に行き着く。サーストンが書斎でやったことと、手順が同じです。しかも上演される短編の作者は一人ではありません。クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・E・ハワード、ロバート・ブロックと、《ウィアード・テイルズ》に集まった書き手たちの作品が並びます。互いに独立した複数の資料が一つの結論へ収束するという原典の仕掛けが、作者名の違いというかたちで散策のほうに現れているわけです。
観客が椅子に座って待つのではなく、自分の足で断片を集めに行く。原典の「発見の構造」を上演で再現するなら、こちらの形式のほうが素直だと言えます。散策は入場無料で、集合場所はAußenmühlendamm、バス146番のAußenmühle停留所前です[1]。
二つの100年、その数え方
「クトゥルフ100周年」という言い方には、注意しておきたい点があります。「クトゥルフの呼び声」が書かれたのは1926年の夏ですが、活字になったのは1928年2月号の《ウィアード・テイルズ》でした[3]。2026年は執筆から100年目にあたり、発表からはまだ98年です。ドイツ側の案内文が「クトゥルフが100歳になる」と書くのは執筆年を基準にした数え方で、掲載年を基準に取れば節目は2028年になります。
この2年のずれは些細に見えて、原典の性格をよく表しています。ラヴクラフトは1926年にニューヨークからプロビデンスへ戻った直後にこの作品を書き、掲載までに1年半ほど待たされました。生前の彼はパルプ誌の一寄稿者であり、クトゥルフが世界中で読まれるようになったのは死後のことです。100年を数える起点が二つあること自体が、この作家の受け取られ方の歴史をそのまま示しています。
このサイトでは、クトゥルフ神話を原典・ダーレス系拡張・TRPG設定という三つの層に分けて記録しています。「Cthulhu im Park」は原典の層に属する作品の翻案であり、その点でNecronomiCon Providence 2026で行われた朗読劇や幻灯上映と同じ系譜にあります。一方、Cthulhu in a Castleのような宿泊型TRPGイベントはTRPGの層から伸びた枝です。同じ「体験する神話」でも、どの層から出てきたのかで形が違います。公園という誰でも入れる場所で、無料の散策を含めて開かれた今回の催しは、原典の層がもっとも公共の場に近づいた例のひとつでしょう。
出典
- [1] Miskatonic Theater「Cthulhu im Park – Programm」(2026年8月21日確認) — 8月21日・22日・23日の時間割、18:30からの影絵芝居・ドイツ・ラヴクラフト協会・カクテル・グッズ・ヴィーガン食、20:00〜22:00の本編、22日と23日の16:00〜17:00の演劇散策。散策の説明「In den Seiten des Pulp Magazins Weird Tales haben wir Hinweise auf einen uralten Geheimkult gefunden! An 10 Stationen des Harburger Stadtparks präsentieren Schauspielende klassische Kurzgeschichten von Genre Titanen wie Clark Ashton Smith, Robert E. Howard, Robert Bloch – und natürlich H. P. Lovecraft! Gemeinsam mit dem Publikum kommen wir einer finsteren Verschwörung auf die Schliche! Eintritt frei!」および集合場所「Treffpunkt ist am Außenmühlendamm, an der Bushaltestelle Außenmühle (Bus 146)」を含む 公式プログラム ↩
- [2] metal1.info「Miskatonic Theater feiern „Cthulhu im Park” im Harburger Stadtpark」(2026年7月16日) — 会期2026年8月21〜23日、毎日20:00開演、出演Chiara Lüssow・Nisan Arikan・Vincent Ellmers・Sascha Weingarten・Yasmine Volgmann、脚本と演出Lars Henriks、主催ANTIKYNO、本編は「Pay what you can」方式、の各記述を含む metal1.info ↩
- [3] The H. P. Lovecraft Archive「Lovecraft’s Fiction」一覧 — 「The Call of Cthulhu (Summer 1926)」として執筆時期を1926年夏と記載 Lovecraft’s Fiction / 同「Data Page for “The Call of Cthulhu”」 — 初出は《ウィアード・テイルズ》vol. 11, no. 2(1928年2月号)159–178頁および287頁 Data Page ↩
- [4] hamburg.de(ハンブルク市ハールブルク区)「Fotoausstellung “100 Jahre Stadtpark Harburg”」 — 「Der Harburger Stadtpark wurde im Mai 1926 feierlich eröffnet」(ハールブルク市立公園は1926年5月に落成した)の記述 hamburg.de ↩
- [5] 主催者による公演案内文(SZENE HAMBURG 催事カレンダー掲載、2026年8月21日確認) — 「Der finstere, schlummernde Priester der Großen Alten – Cthulhu – H. P. Lovecrafts berühmteste Schöpfung, wird 100 Jahre alt! Aber nicht nur er: Auch der Harburger Stadtpark erreicht dieses Jahr das stolze Alter von 100!」「Wir entern den Harburger Stadtpark mit “Call of Cthulhu” (Eintritt nach “Pay what you can” Prinzip), und einem großen Theaterspaziergang, der dem Genre der Weird Fiction gewidmet ist (Eintritt frei!)」「Das einzige Horrortheater der Welt」の記述を含む SZENE HAMBURG ↩
- [6] EVENTIM「Cthulhu im Park | Freilichtbühne im Harburger Stadtpark」(2026年8月21日確認) — 会期2026年8月21〜23日の3公演、チケット7,00ユーロから EVENTIM ↩
- [7] Miskatonic Theater 公式サイト(2026年8月21日確認) — 「Das cthuloide Open Air Theater Festival!」の見出しと、NDR Journalによる「Hamburgs wohl originellstes Theater」(ハンブルクでおそらく最も独創的な劇場)ほかの評を掲示 公式サイト ↩
- [8] Mitten in Harburg「100 Jahre Harburger Stadtpark」催事カレンダー(2026年8月21日確認) — 「Freitag, 21. August bis Sonntag, 23. August 2026, jeweils 20 Uhr / CTHULHU IM PARK / Begeben Sie sich bei diesem schaurigen Theaterstück zurück auf eine Kreuzfahrt in das Jahr 1926. Eintritt ab 7 Euro.」の記述 Mitten in Harburg ↩
- [9] Miskatonic Theater 公式サイト「Cthulhu im Park」(2026年8月21日確認) — 二つの100周年について「Der finstere, schlummernde Priester der Großen Alten – Cthulhu – H. P. Lovecrafts berühmteste Schöpfung, wird 100 Jahre alt! Aber nicht nur er: Auch der Harburger Stadtpark erreicht dieses Jahr das stolze Alter von 100!」、上演のあらすじについて「Die hartgesottene Inspektorin LeGrasse will eigentlich Urlaub vom harten Polizei Alltag in Arkham machen – Aber als an Bord ihres Kreuzfahrtschiffes grausige Ritualmorde geschehen, sieht sie sich mit einem skrupellosen Kult konfrontiert, der aus dem Dunkel die ganze Welt in Chaos und Verderben stürzen will. Bevor sie die Übeltäter zur Strecke bringen kann, muss LeGrasse erst einmal für sich selbst entscheiden: Wäre das so schlimm?」 公式サイト ↩

