短編小説 — THE HORROR AT RED HOOK

レッド・フックの恐怖

ブルックリンの港湾地区レッド・フックで子どもの失踪を追うニューヨーク市警の刑事マローンが、落魄した老学者ロバート・サイダムと、その周りに集まる素性の知れない集団に行き着く。サイダムは突然若返って結婚し、新婚の船上で夫婦とも死体で見つかる。1925年8月1〜2日執筆、1927年1月『ウィアード・テイルズ』誌発表。ラヴクラフトのニューヨーク時代の作品で、移民街への偏見が最も露骨に出た一篇。

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レッド・フックの恐怖

「我々の周りには善のみならず悪の秘蹟もまた存在し、我々は未知の世界──洞窟と影と、たそがれに棲む者たちのいる場所──のうちを生き、動いているのだと私は信じている」

— アーサー・マッケンの言葉。H・P・ラヴクラフト「レッド・フックの恐怖」(1925年執筆)冒頭の題辞として引用
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概要

物語はロードアイランドの村パスコーグの街角から始まります。丈夫そうな大柄の男が、いちばん高い建物を見た瞬間に悲鳴を上げて走り出し、次の辻で転んだ[1]。男はニューヨーク市警の刑事トマス・F・マローン。ブルックリンでの手入れの最中に古い煉瓦の建物が何棟も崩れ落ち、囚人も同僚も大勢死んだ事件のあと、「煉瓦の建物」を見ることができなくなって療養に来ていました[1]。

その手入れに至るまでを、マローンの回想として語るのがこの作品です。舞台はブルックリンの港湾地区レッド・フック。追っていたのは子どもの失踪事件で、浮かび上がったのは、フラットブッシュの屋敷に六十年こもって本を読んできた老学者ロバート・サイダムでした[1]。

約8,300語で、ラヴクラフトがニューヨークに住んでいた時期に書かれました。移民街と移民に対する偏見が、この作家の作品の中で最も露骨に出ています。この記事はその部分を伏せません。読みどころの節で正面から扱います。

作品情報

  • 執筆: 1925年8月1〜2日[2]
  • 発表: 1927年1月、『ウィアード・テイルズ』誌 vol.9 no.1、59-73頁[3]
  • 分量: 約8,300語[1]
  • 舞台: ブルックリンのレッド・フック、パーカー・プレイス(作中で「のちに改名」と注記)、フラットブッシュ。枠の部分はロードアイランド州パスコーグ[1]
  • 題辞: アーサー・マッケン。「善と同じく悪の秘蹟もある」で始まる一節[1]
  • 原稿: タイプ原稿がブラウン大学デジタル・リポジトリで公開されている[3]
  • 主題タグ: 都市の地下、悪魔崇拝、ニューヨーク、偏見

登場神格・用語

  • リリス — 船室の白い壁に、一瞬「憎むべき赤」で浮かんだ「カルデア文字の LILITH」[1]。地下の玉座に座る「裸の燐光を放つもの」が誰なのかを、本文は名指ししません
  • ゴルゴ、モルモ — 教会の説教壇の上に刻まれたギリシャ語の呪文が呼びかける名。「千の顔を持つ月」と併記される[1]。マローンはダブリンの大学時代にこの呪文を見たことがあった
  • 呪文 — 「おお、夜の友にして伴侶よ、犬の吠え声と流された血を喜ぶ者よ……」[1]。作品の中で二度、まったく同じ文言で出てくる
  • 神話の固有名詞は出てきません。ネクロノミコンも、クトゥルフも、当サイトが神格として扱う名も、本作にはありません

あらすじ

マローン。42歳。フェニックス・パーク近くのジョージ王朝様式の邸で生まれたダブリン大学出身の男で、「ケルト人の、奇怪で隠されたものを見通す遠い目」と「論理家の、外見上説得力のないものを見抜く素早い目」を併せ持つ、と語り手は言います[1]。若い頃は詩人でした。貧しさと悲しみと亡命が、その目を暗い方向へ向けました[1]。

サイダム。古いオランダ系の家柄。フラットブッシュのマルテンス街から奥まった、祖父が建てた広いが手入れの悪い屋敷で、六十年近く本を読み、思索してきた人物です[1]。中世の迷信については本物の権威で、マローンは彼が書いた「カバラとファウスト伝説についての絶版の小冊子」を読もうと思ったことがありました[1]。

親族が彼の精神鑑定を裁判所に求めたことで、サイダムは「事件」になります。語り手はこの事件について、ポーの引くドイツの権威の言葉を借りて、「読まれることを許さない(es lässt sich nicht lesen)」本のようだと言います[1]。物語にならない、というのです。彼は近年、太って身なりが乱れ、フラットブッシュの屋敷を離れてレッド・フックのパーカー・プレイスの地下室に部屋を借り、そこで素性の分からない集団と交わっていました[1]。

レッド・フック。マローンはこの地区を担当していました。彼の見立てでは、パーカー・プレイスに集まる人々はアラビア文字を使うが、アトランティック街のシリア人たちからは「雄弁に拒絶されている」。儀式は「チベットのシャーマニズムに染まったネストリウス派キリスト教の残滓」で、出自はクルディスタン近辺——「ペルシャの悪魔崇拝者の最後の生き残り、ヤジディの土地」ではないか、と彼は推測します[1]。推測です。本文はマローンの内心として書いています。

結婚。サイダムは突然若返り、身なりを整え、名家の令嬢ゲリッツェンと結婚します。古いオランダ改革派教会での式は「格式と規模で地元のどんな催事も及ばない」もので、一行は正午過ぎにキュナード埠頭へ向かい、午後5時、客船は沖へ出ました[1]。

船。その夜、船室から悲鳴が上がります。夫人の喉には「夫の手にも、人間のどの手にもよらない」爪痕。そして白い壁に一瞬、赤い文字が浮かびました。

upon the white wall there flickered for an instant in hateful red a legend which, later copied from memory, seems to have been nothing less than the fearsome Chaldee letters of the word “LILITH”(訳: 白い壁の上には一瞬、憎むべき赤で文字が明滅した。あとで記憶から写し取られたそれは、まぎれもなく「LILITH」という語の恐るべきカルデア文字だったと思われる)[1]

船医は「それ」を見ていない、とマローンに断言します。明かりをつける直前、開いた舷窓が一瞬、燐光で曇っただけだ、と[1]。

手入れ。警察はパーカー・プレイスの家々に踏み込みます。マローンが降りていった地下で、何が起きたのか。

nothing can ever efface the memory of those nighted crypts, those titan arcades, and those half-formed shapes of hell that strode gigantically in silence holding half-eaten things whose still surviving portions screamed for mercy or laughed with madness(訳: あの夜の地下納骨堂、あの巨人めいたアーケード、そして食いかけのものを抱えて沈黙のうちに巨大な歩みを運ぶ、あの半ば形をなした地獄の姿——抱えられたものの、まだ生きている部分は慈悲を求めて叫ぶか、狂って笑っていた——その記憶は、何をもってしても消えない)[1]

Odours of incense and corruption joined in sickening concert, and the black air was alive with the cloudy, semi-visible bulk of shapeless elemental things with eyes.(訳: 香と腐敗の臭いが吐き気を催す合奏をなし、黒い空気は、眼を持つ形なき元素的なものたちの、雲のような半ば見える塊で生きていた)[1]

行列の先頭には、「彫刻を施した黄金の玉座」にうずくまっていた「忌まわしい、裸の、燐光を放つもの」がいて、その腕には太った老人のガラスのような眼の死体——サイダムの亡骸が抱えられていました[1]。マローンは冷たい濡れた石の上に崩れ落ちます。

崩落。古い煉瓦の建物が何棟も倒れ、囚人と警官の多くが死にました。生き残った囚人のうち、法的に誘拐と結びつけられたのは2人だけ。その2人も、殺人の共犯としては有罪にできず、別の罪で服役しています[1]。黄金の玉座は見つからず、サイダムの家の下では運河が「浚渫できないほど深い井戸」に沈み込んでいるのが確認され、その口は新しい家の地下室を作るときにセメントで塞がれました[1]。

結末。マローンは、根が絶たれていないことを知っています。作品の最後で、警官が一人の老婆が幼い子どもに何かを繰り返し教えているのを聞きます。それは、教会の説教壇の上に刻まれていたのと一字一句同じ呪文でした[1]。

読みどころと注目テーマ

偏見について、伏せずに書く。この作品の語り手は、レッド・フックの住民を「暗い、微妙な顔の海」と呼び、パーカー・プレイスに集まる人々を「エリス島が賢明にも送り返した、名もなく分類もされないアジアの澱」と書きます[1]。これはマローンの視点であると同時に、語り手の視点でもあり、この作品の地の文そのものです。ラヴクラフトがニューヨークに住んでいた時期に抱いた移民への嫌悪が、ここでは物語の恐怖の源としてそのまま使われています。当サイトは、この点を作品の欠点として記録します。恐怖小説として読む価値と、その恐怖が何に向けられているかは、分けて書く必要があります。

推測を推測として書いている箇所。一方で本文は、集団の出自についてのマローンの見立てを「彼は推測した(he conjectured)」「思い出さずにはいられなかった」と、あくまで刑事の内心として書いています[1]。断定ではない。この区別は、読む側が持っていてよいものです。

証拠は消える。壁の「LILITH」は一瞬で消え、「あとで記憶から写し取られた」ものです。船医は「それ」を見ていません。黄金の玉座は見つからず、井戸は塞がれました[1]。この作品で残った物証は、爪痕と、死体と、崩れた建物だけです。ピックマンのモデルの写真とは反対に、ここでは証拠が手元に残りません。

同じ呪文で閉じる。説教壇の上の呪文と、老婆が子どもに教える呪文は、一字一句同じです[1]。作品は円環で閉じ、手入れが何も終わらせなかったことを、文言の一致だけで示します。

執筆背景と影響

執筆は1925年8月1日から2日、二日間で書き上げられています[2]。同じ8月に「彼」(8月11日)が書かれ、翌1926年3月には「冷気」が続きます。三作ともニューヨークが舞台で、ラヴクラフトがこの都市に住んでいた時期の産物です。

発表は1927年1月の『ウィアード・テイルズ』誌[3]。

題辞に置かれたのはアーサー・マッケンの一節で、「人はときに進化の道を逆に辿ることがある」「恐るべき伝承はまだ死んでいない」と続きます[1]。地下に古い信仰が生き延びているという本作の骨格は、この題辞にすでに書かれています。同じ発想は翌年の「クトゥルフの呼び声」で、ルイジアナの沼地の教団として再び現れます。ただしあちらでは、教団の中心にクトゥルフという名が置かれました。本作には、その名がまだありません。リリス、ゴルゴ、モルモ——ラヴクラフトはここでは、既存の伝承の名前だけで書いています。

サイダムの蔵書と、カバラについての小冊子という設定は、1927年の「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」で、ジョゼフ・カーウェンの書棚に並ぶゾーハルへとつながっていきます。

出典

  • [1] H. P. Lovecraft “The Horror at Red Hook”(1925年8月1〜2日執筆)。マッケンの題辞、パスコーグの冒頭、マローンの経歴、サイダムの来歴と小冊子、パーカー・プレイスの描写、マローンの推測、結婚式とキュナード埠頭、船室の爪痕と「LILITH」、地下の光景と黄金の玉座、崩落と事後、結末の呪文は、いずれも公式アーカイブの公開テキストによる。語数は同テキストを2026年9月4日に数えたhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/hrh.aspx
  • [2] The H. P. Lovecraft Archive 小説年表。執筆時期(1925年8月1〜2日)、および「彼」の執筆日(1925年8月11日)は同年表による https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/
  • [3] The H. P. Lovecraft Archive “The Horror at Red Hook” 作品情報ページ(2026年9月4日確認)。『ウィアード・テイルズ』誌 vol.9 no.1(1927年1月)59-73頁への掲載、ブラウン大学デジタル・リポジトリ所蔵のタイプ原稿は同ページによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/fiction/hrh.aspx

関連作品ガイド ── どれから楽しむか

  • 舞台から入る: レッド・フックの項で、実在の地区としての来歴を扱っています
  • 人物から入る: ロバート・サイダムの項
  • 同じニューヨーク時代の作品へ: 「彼」「冷気」。三作を並べると、この都市がラヴクラフトにどう見えていたかが分かります
  • 教団の書き方の先へ: 翌年の「クトゥルフの呼び声」で、同じ骨格に固有の神格の名が与えられます
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