ムーンビーストは、H・P・ラヴクラフト「未知なるカダスを夢に求めて」(1926-1927年執筆/1943年発表)に登場する、幻夢境(ドリームランド)の月を拠点とする種族です。目を持たない蛙状の姿で描かれ、声を持たず、象牙の笛で意思を伝えます。
黒いガレー船で幻夢境の港ディラス=リーンへ渡り、月で産するルビーを対価に人間の奴隷を買い付けます。この交易の窓口に立つのは「レンの男」で、ターバンで正体を隠し人間の商人を装いますが、原文は彼らを「月の怪物どもの奴隷」と明言しています。ムーンビーストは仕える側ではなく、レンの男を隷属させる側です。 ここは取り違えやすいところなので注意してください。
買われた人間の奴隷は、太った者と痩せた者で扱いが分かれます。痩せた者は労役に回され、太った者は木箱に詰めて運び去られる、とだけ書かれており、その先の用途は原文に明示されません。
物語の終盤では、主人公ランドルフ・カーターが食屍鬼(グール)と夜鬼(ナイトゴーント)の連合軍を率い、インガノク付近にあるムーンビーストの恒久拠点「名もなき岩」へ奇襲をかけます。この戦いでカーターは、海へ落ちたムーンビーストが泳げないことを観察から見抜きます。
原典はムーンビーストを神格として分類していません。 外なる神でも旧支配者でもなく、夢の国の月に住む一種族として登場します。ただし物語の終盤には、ニャルラトホテプを「無限の姿を持つ恐怖にして戦慄の魂、外なる神々の使者」と呼んだうえで、「あの茸じみたムーンビーストたちが仕える」相手はこのニャルラトホテプだと原文がはっきり述べる一文があります[1]。神格としての体系的な分類は与えられていませんが、仕える対象は原文で名指しされています。TRPG側の資料が神格の枠組みで整理している場合は、それが原典由来ではなく後年の整理である点を分けて読んでください。
原典での描写
原文での呼び方と初出の場面
「ムーンビースト」という呼び名は、物語の最初から使われているわけではありません。ランドルフ・カーターが幻夢境の港ディラス=リーンで初めて黒いガレー船と出会う場面では、船で運ばれてくる商人は「人間か、それに近い姿」とだけ記され、船を漕ぐ者たちについては「漕ぎ手の姿は誰の目にも触れたことがない」と書かれるにとどまります[2]。この時点で、商人たちの正体を示す固有の名は一切登場しません。
その正体が明かされるのは、物語のかなり後半、カーターがレン高原で謎めいた住民の姿を目にする場面です。原文はここで初めて彼らを月の怪物どもの奴隷と呼び、続けて「彼らはまさに、はるか以前にカーターをその悪臭漂うガレー船で拉致した、あの浅黒い民に他ならなかった。カーターは彼らの同族が、あの忌まわしい月の都の不浄な波止場を群れをなして追い立てられる姿も目にしていた」と振り返ります[3]。ディラス=リーンで名も無いまま登場した商人と、幻夢境の月を拠点とする種族が同一だったことが、ここで初めて結びつけられます。
この場面では英語表記「moon-things」が二度使われますが、直後の場面から先は一貫して「moon-beasts」の表記に変わります。海に浮かぶ岩礁の根城が語られる箇所ではすでに「かの怪物じみたムーンビーストどもは、海に浮かぶ切り立った岩礁に根城を構えていた」とあり[4]、以後、原文中で彼らを指す呼び名は単数形の Moon-beast を含めてこの形に統一されます。
月の都での姿と商人との関係
ムーンビーストの根城となる岩礁の集落は、原文で忌まわしい月の都と呼ばれます[3]。波止場の場面では、彼らは人間に近い奴隷と並んで働く姿で描かれ、「幾十人ものほとんど人間に近い奴隷とムーンビーストが波止場で立ち働き、木箱や荷箱を運んだり、名も知れぬ途方もない怪物に牽かせた荷車を操ったりしていた」と記されます[5]。ここでの「ほとんど人間に近い奴隷」が、ディラス=リーンでターバンを巻いて商人を装う「レンの男」にあたります。原文はこの場面で両者を並べて描くにとどまり、指揮系統や取引の細部までは書き込んでいません。
終盤の戦いでの描かれ方
食屍鬼と夜鬼の連合軍が名もなき岩へ奇襲をかける場面でも、ムーンビーストは一貫してこの集団名で呼ばれます。崖上の激戦を描く一文には「ムーンビーストの一隊を率いる頭目がその場にいるらしかった」とあり[6]、指揮を執る個体の存在をうかがわせる書き方がされていますが、名前や姿の描写はこの一文以上には広がりません。
物語の終盤、ニャルラトホテプの居城でカーターが回想する場面では、先に触れたとおりムーンビーストがニャルラトホテプに仕える存在だと原文がはっきり述べています[1]。名もなき岩での敗北を経てもなお、原文はこの主従関係を否定していません。
表記について
「月棲獣」という表記も使われます。 ただしこれはラヴクラフト原典の訳語として定着したものではなく、後年の日本語圏におけるTRPG紹介記事で用いられるようになった通称的な表記です。英語表記は Moon-beasts(単数形 Moon-beast)で、原典本文にこれ以外の固有名は登場しません。当サイトは原典側の呼称にあたる「ムーンビースト」を見出しに採っています。
恒久的な拠点は幻夢境のインガノク付近にある「名もなき岩」で、ディラス=リーンはあくまで交易先です。拠点と交易先を取り違えないようにしてください。
関連語: 月棲獣、Moon-beast、レンの男、黒いガレー船、名もなき岩、ディラス=リーン
出典
- “It is Nyarlathotep, horror of infinite shapes and dread soul and messenger of the Other Gods, that the fungous moon-beasts serve.”(訳: 「無限の姿を持つ恐怖にして戦慄の魂、外なる神々の使者たるニャルラトホテプにこそ、あの茸じみたムーンビーストたちは仕えているのだ」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), 公式アーカイブ
- “the rowers are never beheld”(訳: 「漕ぎ手の姿は誰の目にも触れたことがない」) — 同上
- “They were indeed the same dark folk who had shanghaied Carter on their noisome galley so long ago, and whose kith he had seen driven in herds about the unclean wharves of that accursed lunar city.”(訳: 「彼らはまさに、はるか以前にカーターをその悪臭漂うガレー船で拉致した、あの浅黒い民に他ならなかった。カーターは彼らの同族が、あの忌まわしい月の都の不浄な波止場を群れをなして追い立てられる姿も目にしていた」) — 同上
- “The monstrous moon-beasts made their camp on a jagged isle in the sea.”(訳: 「かの怪物じみたムーンビーストどもは、海に浮かぶ切り立った岩礁に根城を構えていた」) — 同上
- “…scores of almost-human slaves and moon-beasts by the waterfront handling crates and boxes or driving nameless and fabulous horrors hitched to lumbering lorries.”(訳: 「幾十人ものほとんど人間に近い奴隷とムーンビーストが波止場で立ち働き、木箱や荷箱を運んだり、名も知れぬ途方もない怪物に牽かせた荷車を操ったりしていた」) — 同上
- “the leader of the moon-beast party appeared to be present”(訳: 「ムーンビーストの一隊を率いる頭目がその場にいるらしかった」) — 同上






