概要
中央アジアの現実の秘境とも、夢の国極北に広がる異界とも語られる、悪名高き極寒の高原[1]。廃墟となった石造都市、環状列石、そして死体を喰らう教団や、顔のない「夜鬼(ナイトゴーント)」、正体を明かさぬ高僧が支配するとされる。ラヴクラフトの複数の代表作にまたがって言及されながら、現実の地理と夢の国のいずれに属するのかという境界線自体が意図的に曖昧なまま留め置かれている点が特徴的な地名である。
原典での描写
「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?―1927年1月22日執筆)――レンの位置づけと住人
インガノクの人々にとって、レン高原は北方の峰々の彼方に横たわる、近づいてはならない土地として語られる。乾いたカスタネットめいた不穏な物音が夜ごと漂ってくることだけが、その実在を知らせる数少ない手がかりとされる。「旅人たちは以前にもこうした音を耳にしたことがあり、それが健全な者の決して訪れることのない冷たい砂漠の高原――すなわち邪悪と怪異に満ちたかの地、レンからしか漂ってこないことを知っている」[5]。カーターは後に、その音の主である住人の姿を目の当たりにする。「彼らは足の代わりに蹄を持っているかのように跳ね、小さな角のついた鬘か頭飾りのようなものを被っているように見えた。背には小人のような尾があり、見上げるとその口の異様な広さが見て取れた」[6]。
「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?―1927年1月22日執筆)――石造りの修道院と高僧
高原を統べるとされる高僧の存在も、複数の場面で言及される。黄色い絹の仮面をつけ、太古の石造りの修道院にただ一人住まうというその人物は、寡黙な隊商筋でさえ取引があったと噂されるほどの禁忌の存在である。「彼は、黄色い絹の仮面を顔に着け、太古の石造りの修道院にただ一人住まうという、名状しがたき高僧とすら取引をしたという噂まであった」[7]。高原を越えてカダスへ向かう道中には、この高僧に仕える使者や、シャンタクといった脅威が待ち受けているとも語られる。「レンの高原を、ただ一つの修道院を過ぎて進むことを、彼は独りでは危険に過ぎると恐れた。高僧の使者は数多くいるに違いなく、旅の果てには疑いなくシャンタクや、その他何かに対処せねばならないからだ」[8]。
「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?―1927年1月22日執筆)――月の獣との関係
レンの住人の正体は、物語の終盤で明かされる。カーターは彼らの姿を見て、ディラス=リーンで紅玉を商う黒いガレー船の商人たちと同族であることに気づく。「レンの正体不明の民は、ディラス=リーンで紅玉を商う黒いガレー船の、あの不快な商人たちと同族であった――怪物じみた月の獣どもの奴隷である、あの人間ならざる商人たちと」[9]。レンと、インガノク北方の荒野一帯は『他の神々』に近い場所とされ、隊商の一人はそこで囚われた者を、怪物じみたニャルラトホテプの許へ引き渡そうとしていたとも語られる。「レンとインガノク北方の寒冷な荒野は『他の神々』に近いに違いなく、そこではカダスへの道は厳重に見張られている」[10]。
「狂気の山脈にて」(1931年2月―3月22日執筆)
南極探検隊の記録者である語り手は、山脈の眺めそのものにレン高原の記憶を幾度も重ねる。切り立った峰の連なりが奏でる不穏な唸りや、ニコラス・レーリヒの描いたアジアの山岳画を思わせる光景に触れるたび、語り手はネクロノミコンに記された、レン高原についての「さらに奇妙で不穏な」記述を思い起こす[2]。そして探検隊が太古の都市の廃墟に足を踏み入れたとき、語り手はついにこの高地の正体を悟る。「この忌まわしき高地こそ、ネクロノミコンの狂える著者ですら語ることをためらった、悪夢のごとく名高いレン高原に違いないという確信が、我々の胸に募っていった」[11]。
「セレファイス」(1920年11月初旬執筆)・「永劫より」(ヘイゼル・ヒールドとの共作、1933年執筆)
「セレファイス」では、夢の都セレファイスを探し求めるクラネスが、レン高原に住まう高僧から辛くも逃げ延びた経験が短く触れられる。「一度は、黄色い絹の仮面を顔に着け、レンの冷たい砂漠の高原にある太古の石造りの修道院にただ一人住まう、名状しがたき高僧の許から辛くも逃れたこともあった」[12]。「未知なるカダスを夢に求めて」で描かれる高僧と同じ人物像が、この初出作の時点ですでに与えられていたことがわかる。
「永劫より」では、レン高原の名は、ガタノトーアを崇める秘密教団の広がりを列挙する一節に挙がるのみで、地理や住人についての具体的な描写はない。「呪われしアトランティスと、忌まわしきレン高原とに、ガタノトーアを崇める秘匿された邪教団の噂があった」[13]。
基本プロフィール
- 分類: 地名(現実/夢の国の境界領域)
- 欧文表記: PLATEAU OF LENG
- 初出・出典: 「猟犬(The Hound)」(1922年執筆/1924年発表)
- 地理設定: 初出時は中央アジアの実在地理の延長として語られるが、後年の作品では夢の国の極北とも、南極の失われた文明とも呼応する多層的な魔境として描かれる
由来・モデル
初出の「猟犬」では明確に「中央アジアの近づき難きレン」と、現実の地球上の秘境(チベット周辺を思わせる記述)として言及される[1]。しかし後の「未知なるカダスを夢に求めて」では、夢の国の中でカダスへ至る旅の障壁として立ちはだかる「健全な者の訪れることなき氷の砂漠の高原」として描かれ[4]、「狂気の山脈にて」ではさらに、南極で発見された太古の非ユークリッド都市の建築様式が、ネクロノミコンに記されたレン高原の忌まわしき描写と不穏な符合を見せるとされる[2][3]。この扱いの違いは、ラヴクラフトが特定の地名を複数の異なる文脈で再利用し、読者の間に「これは現実の地理なのか、それとも夢や神話の中だけの場所なのか」という判然としない不安を醸成する手法の典型例として、しばしば論じられる。
歴史・年表
「猟犬」(1922年執筆)においては、主人公たちが発見した緑玉の護符が、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードの著した禁断の書『ネクロノミコン』に仄めかされた品であり、「近づき難きレンにおける、死体を喰らう教団の忌まわしい魂の象徴」であると語られる形で初めて言及される[1]。その後「未知なるカダスを夢に求めて」(1926–1927年執筆)では、夢の国の地理の一部として、健全な者が立ち入ることのない氷の砂漠として位置づけられ[4]、カダスへ向かうランドルフ・カーターの旅における重要な障壁の一つとなる。さらに後年の「狂気の山脈にて」(1931年執筆)では、南極探検隊が発見した「古のもの」の太古都市の建築が、ニコラス・レーリヒの不穏なアジア風絵画や、ネクロノミコンに記されたレン高原の描写と類似すると繰り返し語られ[2][3]、地球上の複数の秘境にまたがる神話的な符合として扱われている。
性質・特徴
実在の秘境(中央アジア・チベット周辺)と、夢の国という異次元の境界線を意図的に曖昧にすることで、世界地図上の「空白地帯」がそのまま宇宙的な奈落の淵と直結しているかのような感覚を読者に与える。レン高原がラヴクラフト作品内で繰り返し「別の未知の恐怖と不穏な類似を見せる場所」として言及される構造は、地理的な実在性を確定させないことそのものが恐怖効果を高めるという、ラヴクラフト特有の手法をよく表している。
関連する人物・存在
『ネクロノミコン』の著者アブドゥル・アルハザードが「猟犬」において最初にこの地に言及する形で登場する。夢の国の文脈ではランドルフ・カーターがカダスへの道中でこの高原を越える。高原を統べるとされる「顔のない高僧(the high-priest not to be described)」や、死体を喰らう教団、夜鬼(ナイトゴーント)といった存在が結びつけられる。
主要登場作と読みどころ
- 「猟犬」(1922年執筆/1924年発表): レン高原が初めて言及される作品。禁断の護符の由来として、中央アジアの秘境という文脈で語られる。
- 「未知なるカダスを夢に求めて」(1926–1927年執筆/1943年発表): 夢の国編におけるレン高原。カダスへ向かう旅の障壁として、健全な者の訪れることなき氷の砂漠と描写される[4]。
- 「狂気の山脈にて」(1931年執筆/1936年発表): 南極探検隊の記録者が、発見した太古都市の建築とレン高原の忌まわしき描写との不穏な類似を二度にわたって述懐する[2][3]。三作にまたがるこの地名の再利用のされ方こそ、レン高原という地名の最大の読みどころである。
よくある誤解
Q. レン高原は現実の地球上の特定の場所を指すのですか?
A. 作品によって扱いが異なります。「猟犬」では中央アジアの実在の秘境として言及されますが、「未知なるカダスを夢に求めて」では夢の国という異次元領域の一部として描かれ、「狂気の山脈にて」では南極の太古都市との類似という形で間接的に言及されるのみです。単一の確定した地理設定ではなく、複数の文脈で再利用される流動的な地名として扱う必要があります。
Q. レン高原とカダスは同じ場所にあるのですか?
A. 隣接・関連する地域として描かれますが同一の場所ではありません。「未知なるカダスを夢に求めて」ではレン高原はカダスへ至る旅の途上に立ちはだかる障壁として登場し、カダス自体はさらにその先にあります。
出典
- [1] “the ghastly soul-symbol of the corpse-eating cult of inaccessible Leng, in Central Asia”(訳: 「中央アジアの近づき難きレンにおける、死体を喰らう教団の忌まわしい魂の象徴」) — H. P. Lovecraft, “The Hound”(1922年執筆/1924年発表), hplovecraft.com ↩
- [2] “Something about the scene reminded me of the strange and disturbing Asian paintings of Nicholas Roerich, and of the still stranger and more disturbing descriptions of the evilly fabled plateau of Leng which occur in the dreaded Necronomicon.”(訳: 「その光景の何かが、ニコラス・レーリヒの奇妙で不穏なアジアの絵画、そして忌まわしきネクロノミコンに現れる、さらに奇妙で不穏なレン高原の記述を私に想起させた」) — H. P. Lovecraft, “At the Mountains of Madness”(1931年執筆/1936年発表), hplovecraft.com ↩
- [3] “I felt, too, another wave of uneasy consciousness of Archaean mythical resemblances; of how disturbingly this lethal realm corresponded to the evilly famed plateau of Leng in the primal writings.”(訳: 「私はまた、太古の神話的類似についての不安な意識の波を再び感じた。この死の領域が、原初の文献に記された悪名高きレン高原と、いかに不穏な符合を見せることか」) — 同上, hplovecraft.com ↩
- [4] “the icy desert plateau of Leng, which no healthy folk visit”(訳: 「健全な者の訪れることなき、氷の砂漠の高原レン」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [5] “For travellers have heard such sounds before, and know that they float only from the cold desert plateau which healthy folk never visit; that haunted place of evil and mystery which is Leng.”(訳: 「旅人たちは以前にもこうした音を耳にしたことがあり、それが健全な者の決して訪れることのない冷たい砂漠の高原――すなわち邪悪と怪異に満ちたかの地、レンからしか漂ってこないことを知っている」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [6] “They leaped as though they had hooves instead of feet, and seemed to wear a sort of wig or headpiece with small horns. Behind they had dwarfish tails, and when he glanced upward he saw the excessive width of their mouths.”(訳: 「彼らは足の代わりに蹄を持っているかのように跳ね、小さな角のついた鬘か頭飾りのようなものを被っているように見えた。背には小人のような尾があり、見上げるとその口の異様な広さが見て取れた」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [7] “He was even rumoured to have dealt with that high-priest not to be described, which wears a yellow silken mask over its face and dwells all alone in a prehistoric stone monastery.”(訳: 「彼は、黄色い絹の仮面を顔に着け、太古の石造りの修道院にただ一人住まうという、名状しがたき高僧とすら取引をしたという噂まであった」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [8] “Over Leng’s plateau past the lone monastery he dared not go unaided; for the high-priest’s emissaries must be many, while at the journey’s end there would no doubt be the shantaks and perhaps other things to deal with.”(訳: 「レンの高原を、ただ一つの修道院を過ぎて進むことを、彼は独りでは危険に過ぎると恐れた。高僧の使者は数多くいるに違いなく、旅の果てには疑いなくシャンタクや、その他何かに対処せねばならないからだ」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [9] “For the cryptic folk of Leng were of one race with the uncomfortable merchants of the black galleys that traded rubies at Dylath-Leen; those not quite human merchants who are the slaves of the monstrous moon-things!”(訳: 「レンの正体不明の民は、ディラス=リーンで紅玉を商う黒いガレー船の、あの不快な商人たちと同族であった――怪物じみた月の獣どもの奴隷である、あの人間ならざる商人たちと」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [10] “Leng and the cold waste north of Inganok must be close to the Other Gods, and there the passes to Kadath are well guarded.”(訳: 「レンとインガノク北方の寒冷な荒野は『他の神々』に近いに違いなく、そこではカダスへの道は厳重に見張られている」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1926–1927年執筆/1943年発表), hplovecraft.com ↩
- [11] “…the conviction grew upon us that this hideous upland must indeed be the fabled nightmare plateau of Leng which even the mad author of the Necronomicon was reluctant to discuss.”(訳: 「この忌まわしき高地こそ、ネクロノミコンの狂える著者ですら語ることをためらった、悪夢のごとく名高いレン高原に違いないという確信が、我々の胸に募っていった」) — H. P. Lovecraft, “At the Mountains of Madness”(1931年執筆/1936年発表), hplovecraft.com ↩
- [12] “once barely escaping from the high-priest not to be described, which wears a yellow silken mask over its face and dwells all alone in a prehistoric stone monastery on the cold desert plateau of Leng.”(訳: 「一度は、黄色い絹の仮面を顔に着け、レンの冷たい砂漠の高原にある太古の石造りの修道院にただ一人住まう、名状しがたき高僧の許から辛くも逃れたこともあった」) — H. P. Lovecraft, “Celephaïs”(1920年11月初旬執筆), hplovecraft.com ↩
- [13] “there were rumours of the hidden and detested cult of Ghatanothoa in ill-fated Atlantis, and on the abhorred plateau of Leng.”(訳: 「呪われしアトランティスと、忌まわしきレン高原とに、ガタノトーアを崇める秘匿された邪教団の噂があった」) — H. P. Lovecraft with Hazel Heald, “Out of the Aeons”(ヘイゼル・ヒールドとの共作、1933年執筆), hplovecraft.com ↩





