概要
TRPG『クトゥルフの呼び声(Call of Cthulhu)』の版元ケイオシアム(Chaosium)は、2026年7月22日に新しいサンドボックス資料集『Call of Cthulhu: Innsmouth』を刊行した[1]。続く8月15日、この資料集を使った実プレイ「The Glass Cannon Network explores Innsmouth: Call of Cthulhu actual play」が公式ブログで公開された[2]。強盗に失敗した犯罪者集団がインスマスへ逃げ込む、という原典にはない導入から始まるこの実プレイは、TRPG版インスマスが原典『インスマスの影』から何を受け継ぎ、ゲームとして何を新たに足したのかを考える良い手がかりになる。
公開された実プレイ
実プレイはケイオシアム所属のブライアン・ホランド氏がゲームマスターを務め、Glass Cannon Networkのジョー・オブライエン、シドニー・アマニュエル、ケイト・スタマス、ロブ・カーコビッチの各氏がプレイヤーとして参加した[2]。ケイオシアム公式ブログの紹介文は、このセッションを次のように説明している。
“As a criminal gang seeks to lay low after a heist gone terribly wrong, they find the town of Innsmouth to be anything but safe. This one-shot shows how a group could kickoff this incredible sandbox adventure by putting the players fully in the driver’s seat and letting the story emerge through the choices of their characters.”(訳: 「強盗に大失敗した犯罪者集団が身を潜めようとするが、インスマスの町は決して安全な場所ではないと知る。このワンショットは、プレイヤーを完全に主導権を握る立場に置き、キャラクターたちの選択を通じて物語を生み出していくことで、この壮大なサンドボックス・アドベンチャーがどのように始まるのかを示すものだ」)[2]
このセッションはGen Con 2026に合わせて初公開されたと案内されている[2]。使用された資料集『Call of Cthulhu: Innsmouth』は、公式ブログによれば「サンドボックス・キャンペーン設定」として、インスマス周辺の100か所以上の地点の解説とプロットの種、プレイヤー用・キーパー用の街路マップ、主要地点のフロアプラン、80人・体以上のキャラクターや遭遇の詳細、そしてインスマスの秘史・秘教「エソテリック・オーダー・オブ・ダゴン」に関する情報を収録するとされる[1]。
原典『インスマスを覆う影』が描いたもの
原典インスマスの影(1931年執筆/1936年発表)は、旅行中の青年である語り手が、廃墟同然の古港インスマスに興味を持って立ち寄るところから始まる。魚のような顔立ち(インスマス面)をした住民たちへの嫌悪を抱きつつ、地元の老アルコール中毒者ゼドック・アレンから、かつて交易商オーベッド・マーシュ船長が海底の知的種族「深きものども」と契約を交わした歴史を聞かされる。夜間ホテルで襲撃を受けた語り手は闇の中を命からがら脱出するが、数年後、自分自身の容貌が「インスマス面」へと変化していることに気づき、自らも深きものどもの血を引く末裔であると悟る物語である。
つまり原典の筋立ては、よそ者である語り手が町の秘密を系譜調査という形で少しずつ知っていき、最後に自分自身の出自が反転するという、一本道の心理サスペンスだった。舞台となるインスマスの町そのもの、住民たちの異形化、深きものどもとダゴン秘密教団という設定基盤は、いずれもこの原典が確立したものである。
TRPG版は何を受け継ぎ、何を足したのか
公式に確認できる範囲で比較すると、TRPG版『Call of Cthulhu: Innsmouth』とその実プレイは、原典から次のものを受け継いでいる。
- 舞台: インスマスという町そのもの、街路や主要建物の配置(公式説明にある街路マップ・フロアプラン)
- 住民・信仰: 深きものどもとの契約、エソテリック・オーダー・オブ・ダゴンという秘教組織
- 雰囲気: 「決して安全ではない町」という、原典から一貫する不穏さ
一方で、公式説明から確認できる限り、次の要素は原典にはなくTRPG版が新たに足したものである。
- サンドボックス構造: 100か所以上の地点、80人・体以上のキャラクターや遭遇を用意し、決まった筋書きを追うのではなく「プレイヤーを完全に主導権を握る立場に置き、キャラクターたちの選択を通じて物語を生み出す」という進行方式そのもの[2]
- 犯罪者視点の導入: 系譜調査に訪れるよそ者ではなく、「強盗に大失敗して身を潜める犯罪者集団」という、原典にない切り口からインスマスに足を踏み入れる筋立て[2]
原典の語り手は自分の血統という一人称の謎を追う受動的な探索者だったのに対し、TRPG版の実プレイが提示する犯罪者集団は、そもそも別の目的(逃亡・潜伏)でインスマスに来ており、町の秘密そのものを追うことが主目的ではない。この違いは、原典/ダーレス系拡張/TRPG設定——三層で読み解くクトゥルフ神話が指摘する通り、TRPGが「プレイ可能にする」という固有の必然性から独自に発展させてきた系譜の一例と言える。決まった結末に向かう小説の一本道と、プレイヤーの選択で分岐するサンドボックスは、同じ町を舞台にしながらも性質の異なる体験を目指すものである。
公式が公開した紹介動画と、資料集の規模(2026年8月追記)
2026年8月23日、ケイオシアム公式ブログに紹介記事「Chaosium Unveiled: Innsmouth」が掲載され、資料集の内容が改めて整理された[3]。あわせて公式の製品ページを見ると、判型と分量も公表されている。『Call of Cthulhu: Innsmouth』はフルカラーのハードカバーで272ページ、価格は59.99ドル[4]。
製品ページの説明で目を引くのは、深きものどもの扱いである。ダゴン秘密教団とともに「深きものども——まったく新しい、身の毛のよだつ側面を伴って」収録すると明記されている[4]。原典に無い側面を足すと版元が正面から書いているわけで、第3層(TRPGによる拡張)がどう作られるかを示す一例と言える。既存の設定を整理して載せるだけでなく、遊ぶために新しい要素を書き足す——40年以上にわたってTRPG版の系譜を伸ばしてきたのは、この作業の積み重ねだった。
原典が深きものについて置いた記述は、量としては多くない。中心にあるのはゼドック・アレンの証言で、南洋の島民が深きものと交わって「魚のようなもの」へ変わっていったこと、水に入った者は暴力で殺されない限り死なないことが語られる[5]。姿については、語り手が最後に目にする場面で「魚蛙」と呼ばれ、その数は数えきれなかったと書かれるにとどまる[5]。結末で名を与えられる海底都市イハ=ンスレイについても、深きものどもは滅ぼされることがない、と告げられて幕が下りる[5]。
言い換えれば、原典が渡したのは輪郭と結論であり、社会の仕組みや個体差はほとんど空白のまま残された。272ページの資料集が「まったく新しい側面」を足せるのは、この空白があるからである。原典に矛盾しない範囲で余白を埋めるのが第3層の作業だとすれば、今回の資料集はその典型例にあたる。
原典は、町をどこまで描いていたのか
「100か所以上の地点」という数字だけを見ると、原典のインスマスは骨組みだけの町で、TRPGが肉付けしたように思えるかもしれない。実際に原典を読み直すと、そうとも言い切れない。
「インスマスの影」の本文には、固有名を持つ通りが繰り返し出てくる。本文をhplovecraft.comの公開テキストで検索したところ、名前を与えられた通りは、フェデラル、ブロード、ワシントン、ラファイエット、アダムズ、ベイツ、バンク、メイン、マーシュ、ステート、フォール、イライアット、ペイン、ウォーター、フィッシュ、チャーチ、サウス、バブソン、リヴァー、ハイ、そして語り手が歩くその他を含めて21本を数えた[5]。語り手が町を歩く場面では、「私が下りてきた通りはフェデラルだった。その西には古い立派な住宅街——ブロード、ワシントン、ラファイエット、アダムズ——があり、東側は海沿いのスラムだった」という具合に、街路の位置関係まで説明される[5]。
施設も同様である。語り手が泊まるギルマン・ハウス、町の広場、旧メイソン会館を接収したダゴン秘密教団の本部が建つニュー・チャーチ・グリーン、南北戦争後に町で唯一の産業として残ったマーシュ精錬所、町を貫くマヌクセット川、そして沖合の悪魔の岩礁。いずれも原典が名前とともに置いたものだ[5]。
人物のほうは事情が違う。同じ検索で原典に固有名が出てくるインスマスの住民を拾うと、深きものどもとの契約を結んだ張本人であるオーベッド・マーシュ船長、その孫で現在の精錬所を仕切るバーナバス・マーシュ、オーベッドの長男オネシフォラス、96歳の町の飲んだくれゼドック・アレン、そして語り手を町へ運ぶバス運転手のジョー・サージェント——この5人にとどまる[5]。町の外の人物としては、ニューベリーポート歴史協会の学芸員アナ・ティルトンが例外的に名前を持つ。語り手自身の名前は、本文中に一度も現れない(インスマスの無名の語り手)。
つまりTRPG版の街路マップは、原典が名指しした21本の通りを地図へ起こす作業から始まっている。そのうえで、原典が名前だけ挙げて中に入らなかった建物へ間取りを与え、通りすがりに描かれただけの住民に80人以上の詳細を与えた。原典が置いた骨格の上に、遊べる密度を足したという関係である。
本文の分量で比べると、この差はさらに分かりやすい。「インスマスの影」は同じ公開テキストで約2万6千語[5]。一方の資料集は272ページである[4]。一晩で読み切れる中編が、卓を何度も囲めるサンドボックスへ展開されたことになる。
参考資料
- [1] Chaosium Inc. “Out now – the long-awaited Call of Cthulhu Innsmouth” (Posted by Michael O’Brien, 22nd Jul 2026) https://www.chaosium.com/blogout-now-the-longawaited-call-of-cthulhu-innsmouth
- [2] Chaosium Inc. “The Glass Cannon Network explores Innsmouth: Call of Cthulhu actual play” (Posted by Michael O’Brien, 15th Aug 2026) https://www.chaosium.com/blogthe-glass-cannon-network-explores-innsmouth-call-of-cthulhu-actual-play
- [3] Chaosium Inc. “Chaosium Unveiled: Innsmouth” (Posted by Michael O’Brien on 23rd Aug 2026) https://www.chaosium.com/blogchaosium-unveiled-innsmouth/
- [4] Chaosium Inc. “Call of Cthulhu: Innsmouth” 公式製品ページ(2026年8月24日確認。272ページ / フルカラーハードカバー / $59.99、”the horrid Deep Ones—with entirely new and horrifying aspects”) https://www.chaosium.com/call-of-cthulhu-innsmouth-hardcover/
- [5] H. P. Lovecraft “The Shadow over Innsmouth”(1931年執筆/1936年刊行)。通りの名称・語数はいずれも公式アーカイブの公開テキストを2026年8月24日に検索して確認したもの。 https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/soi.aspx
