概要
ラヴクラフトが書いた唯一の長編小説です。プロヴィデンスの旧家の青年チャールズ・デクスター・ウォードが、1692年にセイラムから移ってきた先祖ジョゼフ・カーウェンの痕跡を追い、その遺した術で先祖を灰から呼び戻し、身体を乗っ取られるまでを描きます[1]。
物語は結末から始まります。精神病院から「きわめて奇妙な人物」が失踪した、という報告です[1]。そこから語り手は時間を遡り、18世紀のカーウェンの生涯と1771年の急襲、20世紀の青年の変貌、家庭医ウィレットの調査と地下での発見を、史料と証言を積み上げる形で語っていきます。
生前は一度も活字にならず、1941年に『ウィアード・テイルズ』誌が2号に分けて掲載しました[2]。自筆原稿の1頁目には、元の題「時間からの狂気(The Madness Out of Time)」が残っています[2]。
作品情報
- 執筆: 1927年1月〜3月1日[2]
- 発表: 1941年、『ウィアード・テイルズ』誌 vol.35 no.9(5月号)8-40頁、no.10(7月号)84-121頁[2]。生前未発表
- 元の題: 「The Madness Out of Time」(自筆原稿1頁目)[2]
- 分量: 約5万1千語。ラヴクラフトの小説では最長[1]
- 構成: 全5章。「結果と序章」「先例と恐怖」「探索と喚起」「変異と狂気」「悪夢と破局」[1]
- 舞台: ロードアイランド州プロヴィデンスとポータクセット。1692年〜1928年[1]
- 主題タグ: 死者蘇生、系図と史料、身体の乗っ取り、故郷の地誌
登場神格・用語
- ヨグ=ソトース — 喚起と退散の呪文の中核に置かれる名。「竜の頭」の呪文で呼び、「竜の尾」の呪文で戻す[1]
- ネクロノミコン — カーウェンの蔵書の中に、別の書名を騙って隠されている[1]
- 本質的な塩(essential Saltes) — 死者を灰から呼び戻すための材料。題辞のボレルスの一節に由来[1]
- 竜の頭/竜の尾 — 暦で昇交点・降交点を示す記号。対になった呪文の見出しとして使われる[1]
- ジョゼフ・カーウェン — 1692年3月にセイラムから来た「きわめて長命の男」[1]
- チャールズ・デクスター・ウォード — 語り手ではなく、事件の当人。26歳[1]
- マリヌス・ビックネル・ウィレット — ウォード家の家庭医。地下へ降り、最後の呪文を唱える[1]
あらすじ
第1章「結果と序章」。プロヴィデンス近郊の私立精神病院から、チャールズ・デクスター・ウォードが失踪します。医師たちを困惑させていたのは、26歳のはずの患者が「ごく高齢の者だけが持つ微妙な相」を帯びていたこと、そして身体の機能そのものが医学の経験に例のない比率を示していたことでした[1]。語り手はウォードの半生を振り返り、系図研究に没頭していた青年が、母方の先祖にジョゼフ・カーウェンという名を見つけたところから変わりはじめた、と語ります。
第2章「先例と恐怖」。時間は18世紀へ戻ります。カーウェンは1692年3月、魔女裁判のさなかのセイラムからプロヴィデンスへ来ました。年を取らないように見えること、ポータクセットの農場から夜ごと聞こえる声、墓地から消える死体。町の有力者たちは、ついに行動を決めます。1771年4月12日金曜日の夜10時、およそ100人がサーストン亭に集まり、農場を急襲しました[1]。その夜に何が起きたかは、参加者の誰も語りませんでした。
第3章「探索と喚起」。1919年から20年の冬、ウォードはオルニー・コートの古い家の羽目板の裏からカーウェンの文書を見つけます[1]。カーウェンの肖像画も同じ家から出てきました。ウォードは海外へ渡ります。10月にプラハから届いた絵葉書には、ある中世の知識を持つ「最後の生き残り」とされる高齢の男に会うためだとあり、翌1月にはウィーンを経てさらに東へ向かったと知らせてきました[1]。帰国後は屋根裏の実験室に籠もり、家の中に詠唱と異臭が満ちるようになります。
1927年1月のある真夜中、儀式の詠唱が家中に響くなか、湾から冷たい突風が吹きつけ、近所の誰もが気づくほどの地鳴りが起きました。猫は怯え、1マイル四方で犬が吠え、季節外れの雷が家を直撃したかと思う轟音を立てます。両親が屋根裏へ駆け上がると、扉の前に立っていたのは「勝利と真剣さの、ほとんど恐ろしいほどの取り合わせ」を顔に浮かべたチャールズでした[1]。
第4章「変異と狂気」。ウォードは家を出てポータクセットの平屋へ移り、町では吸血鬼の噂と墓荒らしが続きます。やがてウォードは家庭医ウィレットに長い手紙を書きます。「勝利ではなく、恐怖を見つけた」「私はあの場所を永久に離れた。私がそこにいると聞いても信じてはならない」[1]。しかし手紙のあとに現れた「ウォード」は、以前の彼とは筆跡も語彙も違っていました。
第5章「悪夢と破局」。ウィレットは単身、ポータクセットの平屋の地下へ降ります。そこで見たのは、無数の壺と、底の見えない穴と、穴の中で「非人間的な抑揚」で唸り続けるものたちでした[1]。
その穴について、病院の「ウォード」は口を滑らせています。1771年の急襲を率いたホイップル船長を嘲って、こう言うのです。
he was half-deaf with the noise from Outside and never saw or heard aught from the wells! He never dreamed they were there at all! Devil take ye, those cursed things have been howling down there ever since Curwen was done for a hundred and fifty-seven years gone!(訳: 奴は「外」からの騒音で半ば耳が聞こえず、井戸からは何も見も聞きもしなかった! そこに井戸があるとは夢にも思わなかったのだ! 呪われたあの連中は、カーウェンが片づけられてから157年、ずっとあの下で吠え続けている!)[1]
1771年から157年——1928年です。急襲は地上を焼いただけで、地下は手つかずのまま残っていました。
1928年4月13日、ウィレットはコナニカット島の病院に「ウォード」を訪ね、「竜の尾」の呪文を唱えます。ヨグ=ソトースの名が発せられた瞬間、変化が始まりました[1]。結末は冒頭の失踪の場面へ戻ります。職員が部屋を開けたとき、患者の姿はなく、開いた窓から4月の冷たい風が吹き込み、「細かな青灰色の塵の雲」が舞っていました[1]。
読みどころと注目テーマ
史料が語る小説。この作品の語り口は、日記・書簡・裁判記録・新聞記事の引用でできています。1771年の急襲は「スミスの日記によれば」と前置きされ、集合時刻も場所も参加者の名も挙がります[1]。カーウェン自身の書簡も、18世紀の綴りのまま引かれます。
Say’d ye SABAOTH thrice last Nighte but None appear’d. I must heare more from Mr. H. in Transylvania, tho’ it is Harde reach’g him and exceeding strange he can not give me the Use of what he hath so well us’d these hundred yeares.(訳: 昨夜サバオトを三度唱えたが、何も現れなかった。トランシルヴァニアのH氏からもっと聞かねばならぬ。彼に連絡をつけるのは難しく、この百年よく使ってきたものの使い方を教えてくれぬのは、まことに奇妙だが)[1]
商品の発注書の行に、呪文の失敗と「この百年」という語が紛れ込んでいる。架空の出来事を、実在の史料と同じ手つきで書く。この手法は、翌年の「ダニッチの怪」や、のちのネクロノミコンの歴史にも通じています。
実在の本の列に、架空の本を混ぜる。カーウェンの書棚には、ヘルメス文書、ゾーハル、アルベルトゥス・マグヌス、ライムンドゥス・ルルス、ロジャー・ベーコン、フラッド、トリテミウスが並び、その中に一冊だけ、偽装された本が紛れています。
Mr. Merritt turned pale when, upon taking down a fine volume conspicuously labelled as the Qanoon-e-Islam, he found it was in truth the forbidden Necronomicon of the mad Arab Abdul Alhazred(訳: メリット氏は蒼白になった。『カヌーン・エ・イスラム』とはっきり題された立派な一巻を取り出してみると、それが実は、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードの禁断のネクロノミコンだったからである)[1]
実在の書物が多いほど、偽装された一冊は見つけにくくなります。
題辞が、物語の理屈を先に言っている。冒頭に置かれたボレルスの一節はこう述べます。
by the lyke Method from the essential Saltes of humane Dust, a Philosopher may, without any criminal Necromancy, call up the Shape of any dead Ancestour from the Dust whereinto his Bodie has been incinerated(訳: 同じ方法により、人間の塵の本質的な塩から、哲学者は、いかなる罪ある降霊術にもよらず、その身体が焼かれて灰となった、いかなる死せる先祖の姿をも呼び起こすことができる)[1]
「先祖を灰から呼び起こす」——読者は最初の頁で、これから何が起きるかを告げられています。恐怖は、それが本当に起きるかどうかではなく、起きたあとに何が戻ってくるかに置かれています。
対になった呪文。カーウェンの文書には、二列の呪文が並んでいました。左の列の見出しは「竜の頭」、右の列は「竜の尾」。暦で昇交点と降交点を示す記号です[1]。呼び起こす呪文と、戻す呪文。ウィレットは最後に右の列を使います。
執筆背景と影響
執筆は1927年1月から3月1日まで、約2か月です[2]。前年に「クトゥルフの呼び声」を書き、ニューヨークから故郷プロヴィデンスへ戻った直後にあたります。作中にはブラウン大学のジョン・カーター・ブラウン図書館やジョン・ヘイ図書館、ベネフィット街のシェプリー図書館といった実在の施設名が並び、ウォードが日々通った場所として書かれています[1]。
自筆原稿はブラウン大学のデジタル・リポジトリで公開されており、1頁目に元の題「The Madness Out of Time」が見えます[2]。「時間からの狂気」。のちに「時間からの影(The Shadow out of Time)」という題の作品が書かれることを思うと、この元の題は捨てられたのではなく、形を変えて残ったようにも見えます。
ラヴクラフトはこの長編を生前に発表しませんでした。1941年、没後4年目に『ウィアード・テイルズ』誌が5月号と7月号の2回に分けて掲載しています[2]。
「闇をさまようもの」の廃教会の書架、「ダニッチの怪」のディー英訳版のネクロノミコン——後年の作品に出てくる「書棚の場面」の型は、この長編のカーウェンの蔵書に、すでに出そろっています。
出典
- [1] H. P. Lovecraft “The Case of Charles Dexter Ward”(1927年1月〜3月1日執筆)。ボレルスの題辞、章題、ウォードの年齢、カーウェンの来歴と1771年4月12日の急襲、オルニー・コートの文書、1927年1月の儀式、ウォードの手紙、地下の穴、1928年4月13日のウィレットの訪問、竜の頭・竜の尾の呪文、蔵書の一覧、結末の記述は、いずれも公式アーカイブの公開テキストによる。語数は同テキストを2026年9月4日に数えた https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cdw.aspx
- [2] The H. P. Lovecraft Archive “The Case of Charles Dexter Ward” 作品情報ページ(2026年9月4日確認)。執筆時期、『ウィアード・テイルズ』誌 vol.35 no.9(1941年5月)8-40頁・no.10(同7月)84-121頁への分載、ブラウン大学デジタル・リポジトリ所蔵の自筆原稿と元の題「The Madness Out of Time」は同ページによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/fiction/cdw.aspx
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- 人物から入る: ジョゼフ・カーウェンとチャールズ・デクスター・ウォードの項で、二人の来歴を分けて追えます
- 書棚から入る: カーウェンの蔵書に並ぶ実在の本はゾーハルの項で。隠されていた一冊はネクロノミコンの項で
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