概要
米出版社Hippocampus Pressが刊行するラヴクラフト研究誌『Lovecraft Annual』の第20号が、2026年8月に発売された。公式ジャーナルページによれば、257ページ、価格15ドル、ISBNは9781614985006、編者はS・T・ジョシ(S. T. Joshi)である[1]。同ページはこの号を「ラヴクラフト研究の理解を大きく前進させる素材にあふれている」と紹介している[1]。
同じHippocampus Pressから、もう一冊の研究誌『Lovecraftian Proceedings』第6号も刊行されている。公式ページによれば発売日は2026年8月1日、320ページ、価格20ドル、ISBNは9781614985013、編者はエレナ・チュグノヴァ=ポールソン(Elena Tchougounova-Paulson)である[2]。この号は「NecronomiCon ProvidenceのArmitage Symposium(アーミテージ・シンポジウム)からの選抜論文を含む」と明記されている[2]。
この記事では、書評ではなく、両誌の公式目次に並ぶ論文タイトルを手がかりに、2026年時点でラヴクラフト研究者が何に関心を向けているかを整理する。論文本文は入手しておらず、以下の内容は各誌の公式ページに掲載された情報の範囲にとどまる。
2つの研究誌はどう違うか
『Lovecraft Annual』は、Hippocampus Pressのジャーナル一覧ページによれば「ラヴクラフトに関する新研究(New Scholarship on H. P. Lovecraft)」を掲げる年刊誌で、S・T・ジョシが編集を続けている[3]。同ページで確認できる最も古い号は「Lovecraft Annual No. 01 [2007]」であり、このシリーズが2007年に創刊されたことがわかる[3]。第20号という号数は、ほぼ毎年1冊のペースで刊行が続いてきたことを示している。
一方の『Lovecraftian Proceedings』は、性格が異なる。シリーズページの説明を引く。
“Lovecraftian Proceedings is the Official Organ of the Dr. Henry Armitage Memorial Symposium. Established in 2013 as a key part of NecronomiCon Providence, the Armitage Symposium fosters exploration of Lovecraft as a rationalist who created an elaborate cosmic mythology, and how this mythology was influenced by, and has come to influence, numerous other authors and artists.”(訳: 「『Lovecraftian Proceedings』は、Dr. Henry Armitage Memorial Symposiumの公式機関誌である。2013年にNecronomiCon Providenceの中核企画として創設されたArmitage Symposiumは、ラヴクラフトを、精緻な宇宙的神話体系を作り上げた合理主義者として捉え、その神話体系が他の多くの作家・芸術家からどのような影響を受け、また彼らにどのような影響を与えてきたかを探究する場である」)[4]
つまり『Lovecraft Annual』が年刊の学術誌そのものであるのに対し、『Lovecraftian Proceedings』は2年に一度Providenceで開かれる祭典NecronomiCon Providenceの併設シンポジウムで発表された論文から選抜して刊行される、学会発表集としての性格を持つ。第6号が収めているのは、公式ページの記載通り「NecronomiCon Providence 2024」の選抜論文であり[2]、開催から刊行まで約2年を経ていることになる。
Annual No.20の目次に並ぶもの
公式ページに掲載された第20号の目次は次の15項目である[1]。8番はラヴクラフト自身の文章で、残る14本が研究論文とコラムにあたる。
1. A Life “Among Scenes”: Tracing an Asexual Lovecraftian Erotic / Zachary Killebrew2. Entropy, Aging, and Death in H. P. Lovecraft’s “The Colour out of Space” / James Goho3. Lovecraft and the Six Thermometers: More about Lovecraft’s First Newspaper Appearance / Horace A. Smith4. “The Unnamable” and Salem’s Charter Street Cemetery / Donovan Loucks5. “The Shadow over Innsmouth” and Devolution in Early Twentieth-Century “Scientifiction” / Cecelia Hopkins-Drewer6. “The Emptiness and Horror of Reality”: An Autobiographical Approach to Lovecraft’s “He” / Dylan Henderson7. Whispering in Darkness: Lovecraft and the Rise of UFO Mythology / Duncan Norris8. “Invokes the Deadly Parallel” / H. P. Lovecraft9. Discoveries in Darkest Devon / Adam Bolivar10. Putting a Face to the Great Race of Yith: Theodotides, Diodotus I, and “The Shadow out of Time” / Oliver D. Hoover11. “The Colour out of Space”: Influences and Impact / Ron L. Johnson II12. Before Cthulhu: The Gradual Formation of Cosmicism in Lovecraft’s “Nathicana” and “A Garden” / Alysa Taylor13. Vanishing Rooms, Vanishing Streets: Kantian Gothic Genealogies from O’Brien to Lovecraft / John P. Irish14. “Died Screaming in a Madhouse”: A Look at Asylums in Lovecraftian Fiction / Kyle Gamache15. How to Read Lovecraft / A Column by Steven J. Mariconda
このほか書評欄、寄稿者紹介、第11号から第20号までの総索引が付く[1]。
15項目のタイトルを並べただけでも、いくつかの塊が見えてくる。1本の中編に複数の論文が集中している点がまず目を引く。「宇宙からの色」だけで2本(2番・11番)、「インスマスの影」を扱う論文が1本(5番)ある。当サイトの「宇宙からの色」の記事は、この中編を「怪物に姿を与えず、分光器にも化学分析にも掛からない何かを描いた作品」と紹介したが、Goho論文のタイトル「エントロピー、老化、死」は、まさにこの「姿を持たない何か」が農場の作物・家畜・人間を内側から蝕んでいく過程を、老いと崩壊という主題から読み解こうとするものだと推測できる。ただし論文本文を読んでいないため、この推測が正しいかどうかは確認できていない。
10番の「イースの大いなる種族に顔を与える(Putting a Face to the Great Race of Yith)」は、副題に「Theodotides, Diodotus I」という古代の人名と『時間からの影』を並べている。当サイトの「イースの大いなる種族」の記事で確認した通り、ラヴクラフトは『時間からの影』でこの種族の姿を次のように書いている。
“The Great Race’s members were immense rugose cones ten feet high, and with head and other organs attached to foot-thick, distensible limbs spreading from the apexes.”(訳: 「大いなる種族の一員一員は、高さ約10フィートの鱗状の巨大な円錐であり、頭部やその他の器官は、円錐の頂点から伸びる太さ約30センチの伸縮自在な肢に付属していた」)[5]
タイトルの「顔を与える(Putting a Face to)」という言い回しと副題の人名から、この文章による記述に古代の肖像や図像を重ねて読む論文だと推測できるが、本文未読のため推測にとどまる。7番の「暗闇で囁くもの:ラヴクラフトとUFO神話の勃興(Whispering in Darkness: Lovecraft and the Rise of UFO Mythology)」も、『闇に囁くもの』を20世紀のUFO神話の形成史と結びつける試みだろう。12番の「クトゥルフ以前:コズミシズムの緩やかな形成(Before Cthulhu: The Gradual Formation of Cosmicism)」は、副題が初期の詩「Nathicana」と「A Garden」を対象に挙げており、当サイトが「宇宙的恐怖とは何か」で「人間の知識や文明、モラルが広大な宇宙においては無価値であると知ることで生じる、実存的・哲学的な恐怖」と定義したコズミシズムが、代表作「クトゥルフの呼び声」(1926年執筆)以前の初期作品にどう芽生えていたかを追う論文だと推測できる。
14番の「『発狂して死んだ』:ラヴクラフト作品における精神病院(‘Died Screaming in a Madhouse’: A Look at Asylums in Lovecraftian Fiction)」も見過ごせない。当サイトの「ラヴクラフトの生涯と創作活動」は、父ウィンフィールドと母スーザンがともに精神疾患により入院したことを記録している。作中の精神病院という主題が、こうした実生活の経験とどう響き合うのかは、この論文が扱う可能性のある論点の一つだろう。
Proceedings No.6の収録論文
『Lovecraftian Proceedings』第6号については、収録論文一覧が公式ページの目次として確認できている(全16本)。当サイトが2026年8月31日付でまとめた資料メモに基づけば、収録論文には次のようなものが含まれる。
- Translating the Necronomicon: Lineages of Dark Epistemology
- The Phonotactics of Fear: H. P. Lovecraft and “Unknowable” Languages
- The Shadow over Lake Erie: A Trip to Cleveland and Its Influence on H. P. Lovecraft’s Innsmouth
- Time as a Narrative Tool in “The Silver Key”: A Figural Interpretation of Randolph Carter
- Eldritch Institutions: Lovecraft and Butler Hospital
- Melville, *Moby-Dick*, and the Shaping of the Lovecraftian Gaze
「ネクロノミコンを翻訳する:暗黒の認識論の系譜(Translating the Necronomicon: Lineages of Dark Epistemology)」は、当サイトの「ネクロノミコン」の記事で確認した通り、ラヴクラフト自身が「ネクロノミコンの歴史」(1927年執筆)という偽の書誌を書き、ラテン語訳・ギリシア語訳・アラビア語原題といった翻訳の系譜を作中に整備していた事実と直結する論点である。「恐怖の音韻論:ラヴクラフトと『知り得ない』言語(The Phonotactics of Fear)」は、こうした翻訳の系譜とは別に、ラヴクラフトが作中で用いた呪文や固有名詞——「クトゥルフ・フタグン」のような音の連なり——が、なぜ人間の言語として発音しにくく響くのかを、音韻論の観点から扱う論文だと推測できる。両論文とも、ネクロノミコンという1つの主題を、翻訳史と音韻という異なる角度から論じている点が対になっている。
「シェイドウ・オーヴァー・レイク・エリー:クリーヴランド旅行とインスマスへの影響(The Shadow over Lake Erie)」は、当サイトの「インスマスの影」の記事が扱う中編の着想源を、ラヴクラフト自身の旅行体験に求める論文と見られる。同記事が確認した通り、作中のインスマスは「頭は妙に幅が狭くて鼻は平たく、瞬きをしないぎょろりとした目をしている」という住民の外見的特徴を軸に描かれるが、この着想が具体的にどの土地・どの旅行経験に由来するのかは、当サイトの記事の範囲では未確認のままだった。この論文が扱っているとすれば、その空白を埋める可能性がある材料だが、論文本文は未読のため断定はできない。
「『銀の鍵』における物語装置としての時間:ランドルフ・カーターの形象的解釈(Time as a Narrative Tool in “The Silver Key”)」は、当サイトの「ランドルフ・カーター」の記事で確認した、「ランドルフ・カーターの陳述」「銀の鍵」「銀の鍵の門を越えて」「未知なるカダスを夢に求めて」という4作にまたがる連続登場人物の造形を、時間という主題から読み直す論文と見られる。当サイトは別記事「The Last Day of H.P. Lovecraft」で、ランドルフ・カーターが「ラヴクラフトの再登場人物であり、彼の真の分身とさえ見なされている」という仏語書評サイトの評を紹介した。この人物を時間という切り口で論じる研究が2024年のシンポジウムで発表され、今回選抜されたことは、カーターという人物への研究上の関心が近年も続いていることを示している。
原典との距離(神話の三層のどこに立つか)
『Lovecraft Annual』も『Lovecraftian Proceedings』も、当サイトが整理する神話の三層——ラヴクラフト原典(1917-1937)、ダーレス以降の拡張(1939-)、TRPGによる拡張(1981-)——のいずれの層にも属さない。これらは神話体系を拡張する創作物ではなく、原典そのものを研究対象として読み直す学術誌である。ただし目次を見る限り、その研究対象は主に第一層に集中している。「宇宙からの色」「インスマスの影」「銀の鍵」「時間からの影」(ネクロノミコンとイースの大いなる種族の記述の出典)はいずれもラヴクラフト自身が1917年から1937年の間に書いた作品であり、14番の精神病院論文も同時期の複数の作品を横断的に扱うとみられる。
一方で7番の「UFO神話の勃興」は、原典そのものではなく、原典が後世(第一層の外)にどう受容され、どのような大衆文化の潮流と結びついたかを扱う論文と見られる。この点では、原典分析にとどまらず、原典が第一層の外へ波及していく過程そのものを研究対象にする論文も含まれていることになる。ラヴクラフトは生前、自らの創作を体系だった「神話」として提示したことはなく、その神話化はダーレス以降(第二層)に本格化した。研究誌の関心が、原典分析(第一層)と受容史(層をまたぐ影響関係)の両方に及んでいる点は、この二層構造をそのまま反映している。
関連して読むなら
- ネクロノミコン — ラヴクラフト自身が整備した架空の書誌と翻訳史。Proceedings収録の翻訳史論文と直結する
- 宇宙的恐怖とは何か — コズミシズムの定義。Annual収録の「クトゥルフ以前」論文の背景として
- イースの大いなる種族 — 円錐形の姿の原文記述。Annual収録の視覚的造形論文の対象
- 宇宙からの色 — Annual収録の2本の論文が扱う中編そのもの
- インスマスの影 — Annual・Proceedings双方が論文の対象とする中編
- 銀の鍵 — Proceedings収録の時間論の対象作品
出典
- [1] ページ数257pp、価格15ドル、ISBN 9781614985006、編者S. T. Joshi、紹介文「The twentieth issue of this flagship journal of Lovecraft scholarship contains an abundance of material that substantially advances our understanding of Lovecraft.」、全15項目の目次(著者名含む。8番はH. P. Lovecraft「Invokes the Deadly Parallel」)の記載がある — Hippocampus Press「Lovecraft Annual No. 20 [2026]」, hippocampuspress.com ↩
- [2] 発売日2026年8月1日、320ページ、価格20ドル、ISBN 9781614985013、編者Elena Tchougounova-Paulson、「including selected papers from the Armitage Symposium of NecronomiCon Providence 2024」の記載がある — Hippocampus Press「Lovecraftian Proceedings No. 6」, hippocampuspress.com ↩
- [3] シリーズの性格「New Scholarship on H. P. Lovecraft」、編者「Edited by S. T. Joshi」、最古号として「Lovecraft Annual No. 01 [2007]」の掲載がある — Hippocampus Press「Lovecraft Annual」シリーズページ, hippocampuspress.com ↩
- [4] “Lovecraftian Proceedings is the Official Organ of the Dr. Henry Armitage Memorial Symposium. Established in 2013 as a key part of NecronomiCon Providence, the Armitage Symposium fosters exploration of Lovecraft as a rationalist who created an elaborate cosmic mythology, and how this mythology was influenced by, and has come to influence, numerous other authors and artists.”の記載がある — Hippocampus Press「Lovecraftian Proceedings」シリーズページ, hippocampuspress.com ↩
- [5] “The Great Race’s members were immense rugose cones ten feet high, and with head and other organs attached to foot-thick, distensible limbs spreading from the apexes.”の記載がある — H. P. Lovecraft, “The Shadow Out of Time”, 公式アーカイブ(当サイト「イースの大いなる種族」記事で既に確認済みの引用を再掲) ↩


