概要
ファーンズワース・ライトは、パルプ雑誌『ウィアード・テイルズ(Weird Tales)』の編集長を1924年11月から1939年12月まで務めたアメリカの編集者です。1888年7月29日カリフォルニア州サンタバーバラに生まれ、1940年6月12日にニューヨーク州ジャクソンハイツで没しました[1]。
権威あるSF百科事典『The Encyclopedia of Science Fiction』は、彼をこう評価しています。
More than anyone else, Wright helped establish the reputations of Robert E Howard, H P Lovecraft and Clark Ashton Smith(訳: 誰よりもライトが、ロバート・E・ハワード、H・P・ラヴクラフト、クラーク・アシュトン・スミスの評価を確立させる助けをした)[1]
当サイトが扱う神話が「本になった」経緯を追うなら、避けて通れない一人です。彼は書き手ではありません。何を載せ、何を突き返すかを決めた人です。
音楽評論家から、原稿読みへ
ライトは第一次世界大戦の従軍経験者だとされています。陸軍歩兵として従軍中は米軍の通訳としても1年間勤務したと伝えられていますが、この従軍経験の詳細について当サイトでは一次資料を確認できていません[5]。除隊後はシカゴ・ヘラルド・アンド・エグザミナー紙の音楽評論家として働いていました[2]。1923年に創刊された『ウィアード・テイルズ』との関わりはそこから始まり、最初は主任原稿読みを務めています[2]。1924年、発行人J・C・ヘネバーガーが創刊編集者エドウィン・ベアードを解任したのに伴い、ライトが編集長の座に就きました[2]。
彼の在任期間は、その雑誌の黄金期と見なされています。ラヴクラフト、ロバート・E・ハワード、クラーク・アシュトン・スミスを定期的に載せていた時期です[2]。約179号を編集した、あるいは177号とする資料もありますが[1][2]、いずれにせよ15年以上にわたって毎号の採否を決め続けた計算になります。
「不明瞭すぎる」——一度は拒否された「クトゥルフの呼び声」
ライトの仕事ぶりでもっとも語り継がれているのが、「クトゥルフの呼び声」をめぐる経緯です。
H・P・ラヴクラフト歴史協会が公開している、ラヴクラフトとライトの往復書簡(1927年7月から1936年7月まで4通)を扱った資料によれば、ライトは「クトゥルフの呼び声」を「不明瞭すぎる(too obscure)」として拒絶しています[3]。同じ資料は、ライトが却下した他の代表作も列挙しています。
- 「異形の家」
- 「クトゥルフの呼び声」——不明瞭すぎる
- 「狂気の山脈にて」——長すぎる
- 「戸口にあらわれたもの」「冷気」——グロテスクすぎる
- 「インスマスの影」——二度拒絶[3]
いずれも、いまでは神話の中核作品として扱われている題名です。当代随一の編集者の目にも、これらは一度目には通らない原稿でした。
説得したのはドナルド・ワンドレイだった
「クトゥルフの呼び声」が結局どうやって世に出たのかについては、ラヴクラフト公式アーカイブが公開しているヒッポキャンパス・プレス刊行の書簡集(S・T・ジョシとデイヴィッド・E・シュルツ編、2019年、ラヴクラフトとワンドレイ兄弟の往復書簡集)の紹介文が、要点をこう記しています。
[ドナルド・ワンドレイが]『ウィアード・テイルズ』のファーンズワース・ライトを説得し、ラヴクラフトの記念碑的な物語「クトゥルフの呼び声」を受理させた[4]
却下したのはライト、翻意させたのはワンドレイという構図です。ワンドレイ自身もラヴクラフトの文通仲間であり、のちにオーガスト・ダーレスとともにアーカム・ハウスを興す人物です。物語が世に出るまでに、書き手一人の力では足りず、編集者と、その編集者を説得する友人の両方が必要だった、ということになります。
小説は結局『ウィアード・テイルズ』1928年2月号(第11巻第2号)に掲載されました。一度は「不明瞭すぎる」と切られた原稿が、その表現ゆえにこそ100年近く読み継がれることになる点は、皮肉と言うほかありません。ワンドレイ本人についても、アーカム・ハウス設立という別の功績があり、当サイトでも稿を改めて扱う予定です。
突き返され続けた末に、あっさり通った2作
先の書簡資料には、もう一つ対照的な事実が記されています。1936年、4通目の手紙でラヴクラフトは2本の原稿を、ほとんど拒絶を予期するかのような書きぶりでさりげなく同封しました[3]。
ところがライトは両方とも受理し、それぞれ1936年12月と1937年1月に掲載されています[3]。この2本が、「闇をさまようもの」と「戸口に現れたもの」でした[3]。
長年拒まれてきた作家の原稿が、ある時から急に通るようになる。理由は資料に明記されていません。編集者側の心境の変化なのか、作品の質の変化なのか、あるいは単なる誌面事情なのか——ここは推測を避け、通った・通らなかったという事実の記録にとどめます。1936年の時点でライトの病状はすでに進んでいたはずですが、それが採否の基準を緩めた理由になったかどうかも、確かめられる資料からは分かりません。
パーキンソン病と共にあった16年
ライトは1921年、『ウィアード・テイルズ』に関わる以前にパーキンソン病と診断されています[2]。当初は仕事に支障がなかったものの、1930年までには自分の署名すら書けなくなっていたと記録されています[2]。彼が編集長に就いたのが1924年ですから、発病後わずか3年でその職に就き、その後の在任期間のほとんどを病とともに過ごしたことになります。SF百科事典の表現では、タイプライターを使う以外に自分の名前を書く手段がなくなるほどの病でした[1]。手が震え、字を書くという行為そのものが失われていく中で、毎号の原稿を読み、採否を決める仕事だけは続けていたことになります。
それでもなお、彼は編集長としてさらに10年近く機能し続け、1940年に退任、同じ年のうちに51歳で世を去っています[1]。後任はドロシー・マキルレイスだったとされ、少なくとも1944年11月号の奥付には「D. McILWRAITH, Editor.」と記載されている[5]。病が進行するあいだも誌面の採否を決め続けたという事実は、彼が拒んだ・通した原稿のリストと並べて読むと、重みが変わって見えます。
『オリエンタル・ストーリーズ』と、幕間の企画
ライトは『ウィアード・テイルズ』一本にとどまらず、1930年に姉妹誌『オリエンタル・ストーリーズ』を創刊しています。これは1933年に『マジック・カーペット』と改題され、1934年に廃刊となりました[2]。
また、シェイクスピア愛好家としても知られ、『真夏の夜の夢』をパルプ誌向けに翻案する企画も手がけていたとされます[2]。神話とは直接関わらない挿話ですが、彼が単なる原稿の門番ではなく、自らも誌面を作ろうとした編集者だったことを示しています。
「最初の偉大なファンタジー編集者」という評価と、その矛盾
同時代・後代の作家や研究者による評価は、おおむね高いとされています。SF作家ジャック・ウィリアムスンが彼を「最初の偉大なファンタジー編集者」と呼んだ、批評家E・F・ブライラーが「質の高い仕事を見抜く優れた編集者」と評した、研究者マイク・アシュリーがライトの『ウィアード・テイルズ』について「ありふれたホラー・パルプ誌から、一つの伝説へと変えた」と書いた、とそれぞれ伝えられていますが、これらの評言の原典は当サイトでは確認できていません[5]。
この評価と、ラヴクラフト・ハワード・スミスという看板作家3人の代表作を軒並み拒絶したという事実は、一見すると矛盾しています。しかし矛盾ではなく、編集者としての判断の幅を示すものと読むこともできます。毎号の誌面を成立させる責任を負う編集者と、後世から一作一作を評価する読者とでは、同じ原稿に対して下す判断が違って当然だからです。
新人を見出す目
ライトが高く評価されるもう一つの理由とされるのが、視覚芸術家の発掘です。マーガレット・ブランデージ、ヴァージル・フィンレイ、ハネス・ボクという3人のファンタジー・イラストレーターの商業的なデビューを、彼が後押ししたと伝えられていますが、当サイトでは一次資料を確認できていません[5]。ブランデージが描いた官能的な表紙絵は、1930年代の『ウィアード・テイルズ』を特徴づける要素の一つになりました。
作家の代表作は突き返しながら、無名の画家には賭けた——この対照も、ライトという編集者の輪郭を描き出します。文章の原稿については保守的に、視覚表現については冒険的に判断していた可能性があります。
同じライトが、ラヴクラフト作品の挿絵も含めて誌面全体の見え方を決めていたことになります。本文をどこまで削るか、表紙に誰の絵を使うか、どの新人にチャンスを与えるか——一冊のパルプ雑誌の背後には、これだけの判断の束がありました。
パルプ雑誌業界の流動性
従軍前後の時期、ライトは音楽雑誌『ミュージカル・アメリカ』にも寄稿していたとされていますが、当サイトでは一次資料を確認できていません[5]。音楽評論家が、戦争と通訳としての従軍を挟んで怪奇小説誌の編集長になる。この転身の経緯は、1920年代のパルプ雑誌業界がどれほど流動的だったかを物語っています。専門の訓練を積んだ小説編集者がいたわけではなく、たまたま原稿を読む仕事に就いた人物が、そのまま一時代を作る立場に押し上げられていく——『ウィアード・テイルズ』という雑誌自体、1923年創刊とまだ若く、編集体制も固まりきっていませんでした。
「正典」を決めた側の一人として
当サイトが「原典/ダーレス系拡張/TRPG設定」という三層で神話を整理するとき、その第1層――ラヴクラフトの原典――そのものが、実は一人の作家だけで確定したものではありません。何が書かれたかと同じくらい、何が雑誌に載ったかが、のちの読者が「原典」として読むものを形作りました。
ライトが一度は突き返した作品の数々は、書き手の死後、オーガスト・ダーレスたちのアーカム・ハウスによって本の形に整えられ、拾い直されています。雑誌の一号として消費されるはずだった原稿が、単行本という形で読み直されたとき、一度は却下されたという事実そのものは忘れられていきました。しかし雑誌掲載当時にどう扱われたか――一度は突き返されたか、すんなり通ったか――は、記録として残る値打ちのある事実です。「クトゥルフ神話という呼称の成立と体系化」で扱った過程の、もう一つ手前の段階に、この編集者の判断が立っています。
出典
- [1] The Encyclopedia of Science Fiction “Wright, Farnsworth”(2026年8月25日確認)。生没年・在任号数・編集方針・『オリエンタル・ストーリーズ』・パーキンソン病の記述は同項目によるhttps://sf-encyclopedia.com/entry/wright_farnsworth
- [2] 同上(在任期間の異なる号数表記、音楽評論家としての経歴、エドウィン・ベアードとの交代の経緯)
- [3] H.P. Lovecraft Historical Society「ラヴクラフトとファーンズワース・ライトの往復書簡(1927年7月〜1936年7月、4通)」紹介ページ(2026年8月25日確認)。拒絶された作品の一覧と理由、1936年の2作受理の経緯は同ページによる https://www.hplhs.org/voluminous60.php
- [4] H・P・ラヴクラフト公式アーカイブ掲載、ヒッポキャンパス・プレス刊”H. P. Lovecraft: Letters with Donald and Howard Wandrei and to Emil Petaja”(S. T. ジョシ、デイヴィッド・E・シュルツ編、2019年)紹介文より。ワンドレイがライトを説得した旨の記述(2026年8月25日確認) https://www.hplovecraft.com/writings/sources/ldhwep.aspx
- [5] 従軍経験、編集者評、視覚芸術家3人の発掘、『ミュージカル・アメリカ』への寄稿について、当サイトでは一次資料を確認できていない。後任者名については、archive.org収蔵の『ウィアード・テイルズ』1944年11月号の奥付に「D. McILWRAITH, Editor.」と記載があり、この点は確認できる






