概要
1643年に建設され、当初は漁業とインド・中国貿易で栄えた港町。1812年の米英戦争後に不景気へ陥った際、交易商オーベッド・マーシュ船長が深きものどもと結んだ契約により、住民が段階的に異種族へと変貌していった歴史を持つ。バスで町に近づく語り手の目には「広大な敷地に密集した建物が並ぶ町でありながら、目に見える生活の気配が不吉なまでに乏しかった。煙突の林からはほとんど煙が上がらず、三つの高い尖塔は塗装も剥げたまま、海に面した地平線を背景に殺風景にそびえていた」[1]と映る。1928年、連邦当局の摘発によって秘密結社が解体され、以後は半ばゴーストタウンと化している。
基本プロフィール
- 分類: 地名
- 欧文表記: INNSMOUTH
- 別表記: インスマウス、インズマス(訳書・資料による表記揺れ)
- 初出・出典: 「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)
- 位置: マサチューセッツ州エセックス郡、マニューゼット川河口(アーカムとニューベリーポートを結ぶ街道の途中)
- 象徴的地物: 沖合約1マイル半の岩礁「悪魔の岩礁(デビル・リーフ)」
由来・モデル
作者ラヴクラフト自身は、実際に訪れたマサチューセッツ州ニューベリーポート(1923年・1931年)の印象を主なモデルにしたとされる。文学的な先行作として、ロバート・W・チェンバース「The Harbor-Master」やアーヴィン・S・コッブ「Fishhead」が研究者によって指摘されている。
歴史・年表
1643年の建設以降、漁業と貿易の中継地として栄えていたが、1812年の米英戦争を経て不景気に陥った。この時期、交易商オーベッド・マーシュ船長がポリネシアのカナカイ族との接触を通じて深きものどもと契約し、秘密結社「ダゴン秘密教団」を興した。マーシュはマニューゼット川の水力を利用した精錬工場も経営していたとされる。
1846年には表向き伝染病とされる出来事(実態は契約反対派の粛清だったとされる)で住民の半数以上が死亡し、以後衰退が進んだ。地元の情報提供者ザドク・アレンの証言では、この年「町は自分たちで見て、考えるようになった。行方不明者が多すぎる、日曜の集会での説教が荒唐無稽すぎる、あの岩礁についての噂話が多すぎる」[2]という不穏な空気があったと語られる。1927年、密造酒取締りを名目とした米海軍とFBIの合同作戦で住民の一斉検挙が行われ、翌1928年には無人建物の爆破・沖合の岩礁への魚雷発射・住民の収監によってダゴン秘密教団が解体されたと伝えられる(この摘発の細部は出典間で確度差があり、他の記述に比べて裏付けがやや薄い)。
性質・特徴
血統と交配を通じて住民の身体そのものが非人間へ変容していくという設定は、外部から来る怪物による直接的脅威ではなく、自己の出自・アイデンティティが内側から侵食されていく恐怖を描き出す。町全体を覆う「あらゆるものに染み渡る、この上なく吐き気を催させる魚臭さ」[3]は物語を通じて繰り返し強調される嫌悪の象徴であり、沖合の悪魔の岩礁も「高潮にもかかわらず、水面からほとんど浮き上がらない黒い長い線でありながら、奇妙などす黒い悪意を思わせるものを漂わせていた」[4]と、静かな不吉さを湛えた地物として描かれる。
この設定の背景には、ラヴクラフト自身の異人種混淆への嫌悪が影響しているとする伝記的分析や、町の異形描写を排外主義的世界観の反映として読む学術研究もあるが、これらはあくまで創作背景・批評的解釈であり、作中設定そのものとは区別して扱うべきである。後続作家オーガスト・ダーレスは短編でインスマスのマーシュ家とダンウィッチのホウェイトリー家との血縁を示唆し、長編『永劫の探究』ではインスマス再興とその後の顛末を描いた。
関連する人物・存在・出来事
深きものども、ダゴン、教団創始者オーベッド・マーシュ、その一族が営むダゴン秘密教団、悪魔の岩礁が中心的な要素。アーカム・ダニッチとは、マーシュ家とホウェイトリー家の血縁が後続作家により言及されるなど、地理的にも設定的にも結びつく。
主要登場作と読みどころ
- 「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表): 唯一無二の舞台作品。青年の系譜調査から始まり、町の秘密の発覚、深夜の逃走劇、そして最後に明かされる語り手自身の血統の真実までを描く、ラヴクラフト神話でも屈指の構成を持つ中編
- 後続作品での展開: オーガスト・ダーレス『永劫の探究』でインスマス再興後の顛末が描かれるほか、TRPG『クトゥルフの呼び声』のキャンペーン多数がこの町を舞台・題材にしている
よくある誤解・設定の食い違い
Q. インスマスの住民の異形化は、外から来た侵略者による被害ですか?
A. いいえ。原典では、住民自身の祖先(オーベッド・マーシュ)が深きものどもと自ら契約を結んだ結果として描かれており、外部からの一方的な侵略ではありません。
Q. ラヴクラフトの異人種混淆への偏見がそのまま作中設定として明記されていますか?
A. いいえ。伝記的分析や批評的解釈として指摘されることはありますが、これは創作背景の分析であり、作中に明記された設定そのものとは区別して扱われるべきです。
出典
- [1] “It was a town of wide extent and dense construction, yet one with a portentous dearth of visible life. From the tangle of chimney-pots scarcely a wisp of smoke came, and the three tall steeples loomed stark and unpainted against the seaward horizon.”(訳: 本文参照) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(1931年執筆/1936年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “Come in ‘forty-six the taown done some lookin’ an’ thinkin’ fer itself. Too many folks missin’—too much wild preachin’ at meetin’ of a Sunday—too much talk abaout that reef.”(訳: 「46年になって、町は自分たちで見て、考えるようになった。行方不明者が多すぎる、日曜の集会での説教が荒唐無稽すぎる、あの岩礁についての噂話が多すぎる」) — 同上 ↩
- [3] “Pervading everything was the most nauseous fishy odour imaginable.”(訳: 「あらゆるものに染み渡る、この上なく吐き気を催させる魚臭さ」) — 同上 ↩
- [4] “And far out at sea, despite a high tide, I glimpsed a long, black line scarcely rising above the water yet carrying a suggestion of odd latent malignancy. This, I knew, must be Devil Reef.”(訳: 「そして遥か沖合、満潮にもかかわらず、水面からほとんど浮き上がらない黒い長い線が見え、それでいて奇妙などす黒い悪意を漂わせていた。これが悪魔の岩礁に違いないと私は知った」) — 同上 ↩





