概要
「名なき霧」(The Nameless Mist)は、クトゥルフ神話の中でも最も影が薄い神格のひとつである。物語本文にはほとんど描かれず、H・P・ラヴクラフトが1933年4月27日にジェイムズ・F・モートンへ宛てた私信に記した神々の系譜の中に、アザトースの直下・「闇」との並びで名を残すのみである[1]。「マグヌム・インノミナンドゥム」という異名で語られることも多いが、この二つが同一存在か別存在かはファンの間で今も論争が続いている。
基本プロフィール
- 分類: 外なる神(書簡系譜にのみ現れる始原存在。原典の物語本文には登場しない)
- 欧文表記: THE NAMELESS MIST
- 初出: ジェイムズ・F・モートン宛書簡(1933年4月27日付)
- 系譜上の位置: アザトースの直下、「闇」と並ぶ
- 異名とされるもの: マグヌム・インノミナンドゥム(Magnum Innominandum、同一存在か別存在かは論争中)
別名/呼称
「マグヌム・インノミナンドゥム(Magnum Innominandum、「名づけられるべからざる大いなるもの」の意)」の名でも広く語られる[2]。後続の作家によって「ニョグ=ソセプ(Nyog’Sothep)」「ンヨグ=ソセプ(N’yog-Sothep)」という別名も与えられている。ただし、これらすべてを同一存在として扱うかどうかは資料によって揺れがある(詳細は「よくある誤解」参照)。
区分
ラヴクラフト自身はこの存在を明確な神格分類の中に位置づけておらず、「外なる神」という区分は日本語圏のファン事典などによる後世の整理に基づく。系譜上はアザトースの子であり、ヨグ=ソトースの親に位置づけられる。
象徴・モチーフ
無定形[3]、始原、系譜(血統)、冗談めかした自己戯画化。ラヴクラフト自身がこの系譜を「呪われた血統」の告白という冗談の体裁で書いたことが、そのままこの神格の位置づけの曖昧さを物語っている。
性質・権能
- 物語本文における具体的な姿・権能の描写は一切ない。後代の整理でも「あまりに無定形で漠然としており、ラヴクラフトの物語の中でいかなる役割も演じるに至らなかった」存在として位置づけられている[3]
- 異名とされる「マグヌム・インノミナンドゥム」は、ラヴクラフト自身の作品本文では「闇に囁くもの」において、ハスター・黄の印・ヨグ=ソトースといった他の神話的概念と並んで言及されている[2]
- 「マグヌム・インノミナンドゥム」という着想そのものは、ラヴクラフトが三通の書簡にわたって語った、彼自身が見た「ローマの夢」に由来するとされる
関係図
1933年4月27日付書簡の系譜では、アザトースを頂点とし、その直下に「名なき霧」と「闇」が置かれ、名なき霧からヨグ=ソトースが生まれたとされる。同じ書簡ではニャルラトホテプもまたアザトースの直下に置かれ、古代ローマの名門「ウィブルニア家」の始祖であるという洒落た説明が添えられており[4]、書簡全体が徹底して冗談の体裁を保っていたことがうかがえる。同様の「神々の家系図」を私信の中で作成する遊びは、ラヴクラフト一人にとどまらず、クラーク・アシュトン・スミスも独自に自作神格の家系図を書簡の中で作成しており、ラヴクラフト・サークルの通信者たちの間で共有された私的な趣向だったとみられる。
日本語圏のファン向け事典では、名なき霧(別名:マグヌム・インノミナンドゥム)はアザトースから生まれた外なる神であり、闇・ニャルラトホテプとは兄弟関係にあたり、ヨグ=ソトースの親にあたる存在として紹介されている。これは基本的に、1933年の書簡に記された系譜をそのまま日本語で再構成したものである。
主要登場作と読みどころ
- ジェイムズ・F・モートン宛書簡(1933年4月27日付): この神格の唯一の一次資料。「悲しいかな──私の背後には悪魔しかいない──黒く這い寄る混沌からの私の血統は次の通りである──」という一節から始まる、ラヴクラフト自身による冗談めかした「血統告白」[1]。
- 「闇に囁くもの」: 異名とされる「マグヌム・インノミナンドゥム」が作品本文に明示的に登場する数少ない例。ハスターや黄の印と並んで言及される[2]。
- ロバート・ブロッホの短編「星から来たもの」では、ラヴクラフトがブロッホのために書き下ろした偽典『妖蛆の秘密(De Vermis Mysteriis)』からの呪文にマグヌム・インノミナンドゥムの概念が組み込まれている。
- フランク・ベルナップ・ロングは「丘の彼方の恐怖」で、ラヴクラフトが語った「ローマの夢」の一バージョンを取り入れている。同じ夢のもう一つのバージョンは、ラヴクラフト自身の死後作品「いにしえの民」として発表された。
よくある誤解
Q. 名なき霧とマグヌム・インノミナンドゥムは同じ存在なのですか?
A. 後代の作家(リン・カーターが代表的)や公式のクトゥルフ神話TRPG設定資料は両者を同一存在として扱っており、これが現在広く流布している解釈である。ただし異論もある。ラヴクラフトはゼイリア・ビショップとの合作『墳丘の怪』において、シュブ=ニグラスの夫として「名づけられざるもの(Not-to-be-Named One)」に言及しており、この記述を根拠に、マグヌム・インノミナンドゥムはむしろヨグ=ソトースと同一で、書簡の系譜に登場する名なき霧とは別存在ではないか、とする理論も一部のファンから提示されている。これは確定した公式設定ではなく、あくまで推論の域にとどまる。
Q. 名なき霧について詳しく知りたいが、どの作品を読めばよいですか?
A. 物語本文にはほぼ登場しないため、読むべき「作品」自体が存在しない。唯一の直接的な資料は1933年の私信そのものであり、それ以外の性格づけ(例:「絶えず貪り続ける虚無」といったファンコミュニティ上の考察)は原典に裏付けのない個人の想像に基づくものである。
出典
- [1] “Alas—I have only demons behind me—my heritage from the Black Crawling Chaos being as follows—”(訳: 「悲しいかな——私の背後には悪魔しかいない——黒く這い寄る混沌からの私の血統は次の通りである——」) — H. P. Lovecraft, ジェイムズ・F・モートン宛書簡(1933年4月27日付、書簡原文の引用), The Family Tree of the Gods – cthulhufiles.com ↩
- [2] “I found myself faced by names and terms that I had heard elsewhere in the most hideous of connections—Yuggoth, Great Cthulhu, Tsathoggua, Yog-Sothoth, R’lyeh, Nyarlathotep, Azathoth, Hastur, Yian, Leng, the Lake of Hali, Bethmoora, the Yellow Sign, L’mur-Kathulos, Bran, and the Magnum Innominandum”(訳: 「私は、これまで最も忌まわしい文脈で耳にしたことのある名前や言葉に直面していることに気づいた——ユゴス、大いなるクトゥルフ、ツァトゥグァ、ヨグ=ソトース、ルルイエ、ニャルラトホテプ、アザトース、ハスター、イアン、レン、ハリ湖、ベスムーラ、黄の印、ルムル=カトゥロス、ブラン、そしてマグヌム・インノミナンドゥム」) — H. P. Lovecraft, “The Whisperer in Darkness”(1930年), Wikisource ↩
- [3] “Also near the top we find ‘The Nameless Mist’ and ‘Darkness,’ both of which were apparently too formless and vague to play any role in HPL’s stories.”(訳: 「頂点付近にはまた『名なき霧』と『闇』が見出されるが、両者ともあまりに無定形で漠然としており、HPLの物語の中でいかなる役割も演じるには至らなかったようだ」) — H. P. Lovecraft, ジェイムズ・F・モートン宛書簡(1933年4月27日付)の解説, The Family Tree of the Gods – cthulhufiles.com ↩
- [4] “Beneath Azathoth we find Nyarlathotep, described here as ‘The ancient patrician gens Viburnia of Haec RESPVBLICA·ROMANA;’ that is, the founder of the noble family named Viburnia in ancient Rome.”(訳: 「アザトースの下にはニャルラトホテプが見出され、ここでは『このローマ共和国における古き名門ウィブルニア家』——すなわち古代ローマにおけるウィブルニアという名門の始祖——として説明されている」) — 同上, The Family Tree of the Gods – cthulhufiles.com ↩





