概要
ミスカトニック大学を擁し、歴史的な古めかしい家並みと陰鬱な魔術的過去を持つ、ラヴクラフト作品世界の中心的な架空都市。作中の地理設定では北にインスマス、西にダニッチ、南東にキングスポートが位置し、複数の神話的事件の調査拠点として繰り返し用いられる。地名自体は「家のなかの絵」(1920年執筆)で言及のみされるが、本格的に舞台として機能するのは「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年発表)が最初とされる[1]。
基本プロフィール
- 分類: 地名
- 欧文表記: ARKHAM
- 初出: 「家のなかの絵」(1920年12月12日執筆) — 地名のみの言及
- 本格的な舞台としての初出: 「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年『ホーム・ブルーワー・ジャーナル』連載)[1]
- 地理設定: ミスカトニック渓谷中央をミスカトニック川が南北に分け、上流にダニッチ、河口にキングスポートがあるとされる
- 主要施設: ミスカトニック大学(医学部含む)、クライストチャーチ墓地、絞首刑人の丘(Hangman’s Hill)
由来・モデル
モデルとなったのはマサチューセッツ州セイラムおよびロードアイランド州プロヴィデンス(ラヴクラフトの故郷)。ラヴクラフトが描いたアーカムの地図はセイラムの地形とよく対応しており、実在のセイラムが1692年のセイラム魔女裁判で知られるのに対応する形で、架空都市アーカムでも同様の魔女関連の事件が過去にあったという設定が組まれている。街の西にある「絞首刑人の丘(Hangman’s Hill)」は、実在のセイラムで魔女の嫌疑をかけられた人々が処刑されたギャロウズ・ヒルに対応する位置にあり、この地理的対応関係を裏づける一例である。
歴史・年表
作中年表としては、1692年にセイラムの魔術師エドマンド・カーターらが入植を開始したとされ(「ランドルフ・カーターの陳述」)、1765年にミスカトニック大学が創立、1880年に同大学医学部が創立された。1882年の隕石落下(「宇宙からの色」)、1888年の洪水に続き、1904-05年頃には「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」で描かれるチフスの大流行が街を襲った。物語はこの惨状を「まるでエブリスの広間から来た有害な悪鬼のように、腸チフスがアーカムを忍び寄り歩いた」[2]と描写し、埋葬が追いつかず「クライストチャーチ墓地の受入用納骨堂でさえ、未防腐処理の遺体を収めた棺で埋め尽くされた」[3]という惨状が語られる。1928年8月にはダニッチのウィルバー・ウェイトリーによる大学附属図書館侵入死亡事件(「ダニッチの怪」)、同年10月のランドルフ・カーター失踪(「銀の鍵」)など、複数の代表作の事件がこの町の年表上に位置づけられている。18世紀には西インド諸島との貿易でキングスポートとともに繁栄し、19世紀には工業地帯へと産業転換した。
なお、アーカムとダニッチの距離感についてはラヴクラフトとオーガスト・ダーレスの記述で食い違いがあり、ダーレスは原作よりもアーカムのすぐ近くにダニッチがあるものとして後続作品を書いている。単一の確定した設定ではなく、原作者と後続作家の間で生じた地理設定の揺れとして扱う必要がある。
性質・特徴
新旧の科学知識と怪異が衝突する舞台であり、合理主義者の知識人が超自然の怪異と遭遇して理性を崩壊させる、神話文学の基本構造を体現する。「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」では、街の敬愛される医師ハルジー博士について「アーカムのあらゆる老住民が記憶する、病人のために尽くした学識ある慈悲深い」人物と描写され[4]、この種の敬愛される知識人がやがて怪異に呑まれていく構図が繰り返し使われる。
ラヴクラフトの死後(1937年)、友人作家オーガスト・ダーレスとドナルド・ワンドレイが、パルプ雑誌に散らばっていた故人の怪奇小説をハードカバーの追悼版として刊行するために設立した出版社「アーカムハウス(Arkham House)」の社名は、この架空都市に由来する。地名としての波及力も大きく、ボードゲーム『Arkham Horror』およびリビングカードゲーム『Arkham Horror: The Card Game』(いずれもFantasy Flight Games)は、この町を舞台にした協力型ゲームとしてクトゥルフ神話を題材にしている。DCコミック『バットマン』シリーズの精神病院「アーカム・アサイラム」も、編集者ジャック・C・ハリスと脚本家デニス・オニールがラヴクラフトのアーカムへのオマージュとして命名したとされ、神話の枠を越えたポップカルチャーの語彙として定着したことを示す一例といえる。
関連する人物・存在・出来事
ミスカトニック大学を通じてヘンリー・アーミテージ博士・ハーバート・ウェスト・ウォルター・ギルマン・ネイサニエル・ウィンゲート・ピースリーら複数の作品の登場人物と結びつく。チャールズ・デクスター・ウォードの実家もアーカム(正確にはプロヴィデンスがモデルとされる)にあり、街そのものが複数の神話的事件を横断する共通の舞台装置として機能する。インスマス・ダニッチ・キングスポートとは地理的に隣接し、これら4都市がラヴクラフト神話地理の中核をなす。
主要登場作と読みどころ
- 「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年): アーカムが本格的な舞台として機能する最初期の連作。ミスカトニック大学医学部を中心に、チフス流行という実際に街を襲った惨事が物語の背景として描かれる
- 「ダニッチの怪」(1928年): アーカムの学者ヘンリー・アーミテージ博士が、隣接するダニッチの怪異解決に赴く構図で、アーカムが「調査する側の拠点」として機能する典型例
- 『チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件』(1927年執筆): アーカム(モデルはプロヴィデンス)の名家の子息が先祖の禁断の知識に憑かれていく長編。街の名家・旧家という側面が前面に出る
- 「宇宙からの色」(1927年): アーカム近郊の農地を襲う異常現象を描き、都市そのものではなく周辺の田園部までがアーカムの「圏内」として扱われることを示す
よくある誤解・設定の食い違い
Q. アーカムとダニッチの距離関係は原典で確定していますか?
A. いいえ。ラヴクラフト自身の記述とオーガスト・ダーレスによる後年の記述の間に食い違いがあり、ダーレスは原作よりも両者を近接させて描いています。単一の確定設定ではなく、後続作家による解釈の揺れとして扱う必要があります。
Q. アーカムのモデルはセイラムだけですか?
A. いいえ。地形的な対応関係は主にセイラムに基づきますが、ラヴクラフトの故郷であるプロヴィデンスの要素も色濃く反映されており、単一の実在都市に一対一で対応するものではありません。
出典
- [1] “the third year of our course at the Miskatonic University Medical School in Arkham”(訳: 「私たちのミスカトニック大学医学部での課程の3年目」) — H. P. Lovecraft, “Herbert West—Reanimator”(1921-22年), 公式アーカイブ ↩
- [2] “like a noxious afrite from the halls of Eblis typhoid stalked leeringly through Arkham”(訳: 「まるでエブリスの広間から来た有害な悪鬼のように、腸チフスがアーカムを忍び寄り歩いた」) — 同上 ↩
- [3] “even the Christchurch Cemetery receiving tomb was crammed with coffins of the unembalmed dead”(訳: 「クライストチャーチ墓地の受入用納骨堂でさえ、未防腐処理の遺体を収めた棺で埋め尽くされた」) — 同上 ↩
- [4] “the learned and benevolent Dr. Allan Halsey, whose work in behalf of the stricken is recalled by every old resident of Arkham”(訳: 「病人のために尽くした、学識ある慈悲深いアラン・ハルジー博士のことは、アーカムのあらゆる老住民が記憶している」) — 同上 ↩






