概要
シュブ=ニグラスは「千匹の仔を孕みし森の黒山羊」の異名で知られる豊穣の女神格である。原典では一度も直接描写されず、「イァ!シュブ=ニグラス!」という呪文の呼びかけとしてのみ繰り返し登場する[1]。今日広く知られる触手と山羊脚を持つ樹木状の怪物というイメージは、実はラヴクラフト自身が書いたものではなく、後続の神話作家たちが原典の空白を埋める形で作り上げたものである。
基本プロフィール
- 分類: 外なる神(ただし資料によって旧支配者に分類されることもある。「区分」の項を参照)
- 欧文表記: SHUB-NIGGURATH
- 初出: 名前自体はラヴクラフトの改稿作品「最後のテスト」(1928年)で最初に登場するが、姿・性質の描写を伴う代表的な言及としては「闇に囁くもの」(1930年執筆/1931年発表)が挙げられる
- 象徴するテーマ: 増殖、森の秘儀、暗黒の豊穣、生命そのものの過剰さ
別名/呼称
もっとも広く知られる異名は「千匹の仔を孕みし森の黒山羊(The Black Goat of the Woods with a Thousand Young)」である。ラヴクラフトが作中で用いた数少ない別称として、「闇に囁くもの」に登場する「森の主(Lord of the Wood)」がある[2](ただしこれが男性配偶神を指す可能性も指摘されており、シュブ=ニグラス自身を指すかどうかは確定していない)。「墳丘」では「万物の母にして名づけられざるものの妻」という呼称でも登場する。原典に明確な語源説明はなく、日本語表記のゆれは大きくないが、後続作品では「豊穣の王」のような意訳的な呼び名が用いられることもある。
区分
シュブ=ニグラスの位置づけは資料によって一貫していない。オーガスト・ダーレスは彼女を旧支配者(Great Old One)に分類したが、クトゥルフ神話TRPG(ケイオシアム社)はこれを外なる神(Outer God)に再分類した。さらにライセンス作品『CthulhuTech』ではダーレス流の旧支配者分類に回帰するなど、後続作品間でも階級づけについて一貫した合意は存在しない。この項では便宜上、現行のクトゥルフ神話TRPGに準じて「外なる神」としている。
象徴・モチーフ
増殖、森の秘儀、暗黒の豊穣、生命そのものの制御不能な過剰さ。クトゥルフやアザトースが体現する「宇宙的スケールの恐怖」とは異なり、シュブ=ニグラスの恐怖は、本来は恵みであるはずの豊穣・生殖が際限なく暴走することへの嫌悪に根差している。
性質・権能
- 肉眼で直接描写されることは原典中では一度もない。姿を見せず、木々のざわめきや獣の遠吠えといった間接的な気配としてのみ感知される
- 後続のTRPG資料(『クトゥルフ・フィールドガイド』『マレウス・モンストロルム』等)では、黒い触手と粘液を滴らせる無数の口を持つ巨大な肉塊、あるいは泡立つ雲状の肉塊に身悶えする黒い触手・短い黒の蹄脚を備えた姿として描写される。まれに外套をまとった人間の姿に化けるとも設定されている
- 絶えず不定形の子供(いわゆる「ダーク・ヤング」)を産み落とし、それを自ら捕食し直すという循環的な生態を持つとされる(この設定も主に後続作家による)
- 地上の古代部族や魔女の集会だけでなく、地球外種族ミ=ゴからも崇拝されているとされる
- ボードゲーム『エルダーサイン』では、遭遇する全モンスターに追加の恐怖タスクを課す特殊能力を持ち、プレイヤーの間で基本セット中もっとも手強い「古き者」として広く認識されている
- ビデオゲーム『QUAKE』(id Software、1996年)では最終ボスとして登場し、プレイヤーキャラクターがその中枢部へ自ら瞬間移動して爆散させることで撃破するという展開になっている
関係図
原典自体には明確な家系設定はないが、ラヴクラフトが友人J・F・モートンへの私信に素描した神々の系譜では、シュブ=ニグラスはアザトースの子(ニャルラトホテプ、「名なき霧」と並ぶ系譜)に連なるとされ、ヨグ=ソトースとの間に双子ナグとイェブをもうけたとされる。ただし「墳丘」で彼女の夫とされる「名づけられざるもの」については、研究者ロバート・M・プライスがヨグ=ソトースと同一視する説と、蛇神イグこそが配偶神である可能性を示唆する説の両方を提示しており、確定していない。
後続作品群でさらに拡張された系譜では、ハスターとの間にイタクア・ロイガー・ザーを、イグとの間に長女ウトゥルス=フアエールを、女神ミノゴーラとの間にティンダロスの猟犬をもうけたとされる。ハスターの妻・配偶神として描かれることもあるが、これはファンの間でも系譜が錯綜し議論の的となっている。子とされる「ダーク・ヤング」は、後続作品で象ほどの大きさの樹木状の眷属として描かれる。これら家系の大半は原典に明記されたものではなく、ダーレス以降の作家・ファンダムによって体系化されたものである点に注意したい。
主要登場作と読みどころ
- 「最後のテスト」(1928年) ── シュブ=ニグラスの名が最初に現れる改稿作品。ただしここでも姿は描かれない
- 「闇に囁くもの」(1930年執筆/1931年発表) ── 「森の主」という数少ない別称が登場し、儀式の場面で名が唱えられる[1][2]
- 「墳丘」 ── ク・ン・ヤンの人々が「万物の母にして名づけられざるものの妻」として祀る神殿の描写があり、比較的まとまった記述が得られる一篇
- 「永劫の彼方より」 ── ムー大陸を舞台に、シュブ=ニグラスの大司祭ティヨグが登場し、ナグ・イェブ・蛇神イグとともに人類側につく用意があったとされるくだりがある
- 「戸口に現れたもの」(1933年) ── 説明のない呼びかけとして名が繰り返される一篇[3]
よくある誤解
Q. 触手と山羊脚を持つ樹木状の怪物という姿は、ラヴクラフト自身が考えたもの?
A. いいえ。原典でシュブ=ニグラスが直接描写されたことは一度もなく、この外見はダーレス、リン・カーター、ブライアン・ラムレイら後続作家たちが作り上げたものである。ラヴクラフト自身は私信の中で「悪しき雲状の存在」とだけ表現しており、はるかに漠然とした構想だったとうかがえる。
Q. ヨグ=ソトースの妻、ハスターの母、というのは公式設定?
A. 原典にそうした記述はない。J・F・モートン宛ての書簡に素描された系譜が土台にはなっているが、ハスターとの親子関係やナグ・イェブ以外の子の設定は、後続の作家・ファンダムが積み重ねたものであり、資料間でも一致していない。
Q. 「森の黒山羊」という異名に問題はある?
A. 一部の読者からは、現代的な文脈で読むと人種差別的な含意を帯びかねないという批判がオンラインの議論の中で個人的な反応として示されている。ただしこれは確立した批評的合意として広く共有されているものではない。
関連記事(用語・原典読解への内部リンク)
闇に囁くもの / ダニッチの怪 / 墳丘 / ヨグ=ソトース / ミ=ゴ
出典
- [1] “Iä! Shub-Niggurath! The Black Goat of the Woods with a Thousand Young!”(訳: 「イアッ!シュブ=ニグラス!千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ!」) — H. P. Lovecraft, “The Whisperer in Darkness”(1930年執筆/1931年発表、フォノグラフ録音の場面), Wikisource ↩
- [2] “…is the Lord of the Wood, even to . . . and the gifts of the men of Leng . . .”(訳: 「……は森の主である、〜に至るまで……そしてレンの民の捧げ物……」) — 同上, Wikisource ↩
- [3] “Iä! Shub-Niggurath!—The shape rose up from the altar”(訳: 「イアッ!シュブ=ニグラス!——その姿は祭壇から立ち上がった」) — H. P. Lovecraft, “The Thing on the Doorstep”(1933年), Wikisource ↩




